大物浦(だいぶつのうら)尼崎城下に、大物町・大物浜・大物橋あり。
 『東鑑』云ふ、
  文治元年十二月十五日、予州(判官義経)の妾(静御前)出で来たり、これを相尋ねる。
  予州は都を出でて西海に赴くの暁、相伴はれ大物の浜に至る。





大物橋跡(だいもつばしあと) 尼崎市東本町4 北浜公園
大物(だいもつ)
尼崎城下の一つ、大物町は平安時代以来繁栄した町場です。 現在地付近の江戸時歳の風景を描写した「摂津名所図会」には、大物橋の北に大物社若宮(現在の大物主神社)が描かれ、遠くに大物と接する長洲の長洲天神【現在の長洲天満宮)が見えます。 大物橋にかかる水路は大物川の一部で、庄下川の分流でした。橋の南側一帯には城下町建設前に尼崎の中心であった大覚寺(現在の寺町へ移転)の寺域がありました。現在地は、この大物川を埋め立てて緑途とし、「歴史の散歩道」として公園整備された所です。 大物の地名由来には、諸説ありますが、平安時代に港町として栄えていた尼崎の材木集散地がこの地にあり、この巨材を「大物」と呼ばれていたことから、いつしかこの地を大物と呼ぶようになったという説が有力です。 大物浜から、平安時代末源義經が兄の頼朝の追討を逃れるため、船出した史実が、のちに謡曲「船弁慶」や歌舞伎の世界で庶民の胸に荒々しき大物浦のイメージを与えることになりました。
                                       尼崎市教育委員会


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