芦刈島(あしかりしま) 大物浜を芦かりしまともいふ。むかしこの浦に日下左街門といふ者あり。
家きはめて貧しく、つひに夫婦あかぬ別れをして、女は都に登り、夫はこの鳥の蘆を刈りて、日毎に市に沽りて、世のいとなみとなしけり。
その芦を刈りたるより刈島といふ。また夫婦再び会ふ事を持つより、まつしまともいふ。今はただ松島と書くなり。
 『大和物語』に云ふ、
 津の国難波のわたりに家して住む人ありけり。あひしりて年頃ありけり。女もをとこも、いとげすにはあらざりけれど、年頃わたらひなどもいとわろくなりて、家もこぼれ、つかふ人などもとく有るところにいきつつ、ただ住みわたるほどに、さすがげすにもあらねば、人にやとはれつかはれもせず、いとわびしかりけるままに、おもひわびてふたりいひけるやう、なほいとわびしうては得あらじ。男はかくはかなくてのみいますかめるを、見捨ててはいづちもいづももえいくまじ。女もをとこも、すててはいづちかゆかんとのみいひわたりけるを、をとこおのれはとてもかくてもへなん、女のわかきほどにかくてあるなんいといとほしき。京にのぼりてみやつかひをもせよ、よろしきやうにもたらは、われをもとぶらへ、おのれも人のこともならばかならずたづわとぶらはんなど、なくなくいひ契りて、たよりの人に云ひつきて、女は京にきにけり。きしはへいづこともなくてきたれは、このつきてこし人のもとにゐて、いとあはれと思ひやりて、まへに荻薄いとおはかる所になん有りける。風など吹きけるに、かの津の国を思ひやりて、いかであらもなどかなしくてよみける。
   ひとりしていかにせまじとわびつればそよともまへの荻ぞこたふる
となんひとりごちける。さてとかう女さすらへて、ある人のやんごとなき所に宮たてたり。さへみやつかひしありくほどに、さうぞくきよげにし、むつかしきことなどもかくてありければ、いときよげにかほだちもなりにけり。かかれど津の国をかた時もわすれず、いと哀れとおもひやりけり。たより人に文をつけてやりたりけれど、さいふ人もきこえずなんと、いとはかなくいひつづきけり。わがむつまじうしれる人もなかりければ、心とも得やらず、いとおぼつかなく、いかがあらんとのみおもひやりけり。かかるほどに、この宮づかへする所の北のかたうせたまひて、これかれある人をめしつかひたまひなどする中に、この人を思ひたまひけり。おもひつきてめに成りにけり。おもふ事もなくてめでたげにてゐたるに、ただ人しれず思ふ事ひとつなんありける。いかにしてあらむ、あしうてやあらん、よくてやあらん、いかあり所も得しらさで、人をやりてたづわきせんとすれど、うたてわがをとこききて、うたてあるさまにもこそあれとわんじつつ、ありわたるをなほいとあはれに覚ゆれば、男にいひけるやう、津の国といふ所のいとをかしげなるに、いかで難波にはらへしがてらまからんといひければ、いとよき事、われももろともにといひけれ。そこにはものなしたまひそ、おのれひとりまからんといひて、いでたちていにけり。難波にはらへして帰りなんとする時に、このわたりに見るべき事なんあるとて、いますこしとやれかくやれといひつつ、このくるまをやらせつつ、家のありしわたりをみるに、家もなし人もなし、いづかたへいにけんとかなしう思ひけり。かかる心はへにてふりはへきたれど、わがむつまじきすさもなし。かかればたづねさすべきかたもなし。いとあはれなれば、くるまをたててながむるに、ともの人は日くれぬペしとて御車うながしてんといふに、しばしといふ程に、蘆荷ひたるをとこの、かたゐのやうなるすがたなる、この車のまへよりいきけり。これがかほを見るに、その人といふべくもあらずいみじきさまなれど、わがをとこに似たり。これを見て、よく見まほしさに、この芦もちたるをのこよはせよ、芦かはんといはせける。さりければ、ようなきものかひたまふとはおもひけれど、しうののたまふ事なれは、よびてかはす。車のもとちかく荷ひよせさせよ、見むなどといひて、この男の顔をよくみるに、それなりけり。いと哀れにかかるものあきたひてよにふる人いかならんといひてなきけれは、ともの人はなはおはかたのよを哀れがるとなんおもひける。かくてこのあしの男に物などくはせよ、物いとおはくあしのあたひにとらせよといひけれは、すずろなるものになにか物多くたまはんなど、ある人々いひけれは、しひてもえいひにくくて、いかで物をとらせんとおもふ間に、したすだれのはざまのあきたるより、この男まもれは、我が女に似たり。あやしさに心をさめて見るに、顔も声もそれなりけりとおもふに、思ひあほせて、わがさまのいといらなくなりたるをおもひはかるに、いとはしたなくて、あしもうもすててはしりにげにけり。しばしといはせけれど、人の家ににげ入りて、かまのしりへにかがまりたりける。この車よりなほこのをとこたづねてゐてこといひけれは、ともの人手をあがちてもとめさわざけり。人そこなる家になん侍りけるといへば、このをとこにかくおはせ事ありてめすなり。なにのうちひかせたまふべきにあらず。物をこそはたまはせんとすれ、をさなきものなりといふ時に、硯をこひてふみかく。それに、
   君なくてあしかりけりとおもふにもいとど難波のうらぞ住みうき
とかきて、封じて、これを御車にたてまつれといひけれは、あやしとおもひて、もてきて奉る。あけてみるにかなしき事物に似ず、よよとぞなきける。さて返しはいかがしたりけん、しらず。くるまにきたりける衣ねぎて、つつみてふみなどかきぐしてやりける。さてなんかへりけるのちには、いかがなりにけん、しらず。
   あしからじとてこそ人のわかれけめなにか難波のうらは住みうき




世阿弥作の能「蘆刈」は、貧しい芦売りに身を落とした男が、都に去った元の妻と再開する物語です。
江戸時代の名所案内である『摂津名所図会』は、「大和物語」を引いて夫婦の悲話を紹介しながら、その舞台となった大物あたりの芦刈島の様子を描いています。

戦国時代の幕開けとなった応仁の乱のなか中国・九州の兵を率いた西軍・大内政弘が東上し、応仁元年(1467)8月尼崎の海上に於いて東軍の赤松一族と戦いました。
この絵図はその船戦の様子を、のちの時代に描いたものと思われます。
尼崎は当時、摂津国の中心都市のひとつとして、しばしば戦乱に巻き込まれました。
この船戦のときも大内勢が町を焼き払い、女子供までが犠牲になったと伝えられています。
2004年9月建立 協同組合尼崎工業会



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