馬塚(むまづか) 郡山村東二町はかりにあり。天正元年将軍義昭(よしあき)公山州真木島(まきのしま)城に拠りたまふ所織田信長これを攻むる。義昭公敗走して士卒多く討死す。その中に和田帷正(これまさ)ひとり残兵を率ゐて耳原(みのあはら)の糠塚(ぬかづか)に陣し、中川清秀と戦ひ帷正つひにここにて戦死す。帷正は楠正武(まさたけ)の後なり。


島下郡郡村 村誌(明治12年12月)
馬塚 東西十間五分 南北九間五分 積三畝拾歩 除税
郡兵太夫ノ乗トコロノ馬ヲ此ニ葬ル 因テ馬塚下名ツク


馬塚(うまづか) 茨木市郡5-12
阪急バス下井下車、徒歩5分。郡小学校の東、郡コミュニティセンターの東隣、郡区画整理1号公園にあります。


鍋をかえしたような土盛りの上にもちの木が1本立っています。かつては周りが田圃で、四方からよく見えて、目印となっていました。


区画整理で当たりは一変しましたが、ここだけは昔のままです。
摂陽群談(1701)に朝鮮出兵の折り、豊臣秀吉の愛馬を葬った所であるとか、明智光秀の馬だったとか記され、大阪府全誌(1922)には、白井河原の合戦のとき、郡兵太夫と家来を葬ったのが茶臼塚で、馬を葬ったのが馬塚だと書かれている。郡小学校の北側が馬塚とする説もあるようです。

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