玉川(たまがは) 三島江の西の方、西面村田畔の中にあり。名所六つ玉川のその一なり。
土人云ふ。中秋の月この流水にうつるときは、その影二つに見ゆとなり。和歌には玉川の里を多く詠めるなるべし。
卯鼻・時鳥・擣衣・月・萩・氷柱・氷・あられなど読み合はせなり。
   『風雅』     時しらぬ里は玉川いつとてか夏の垣ねをうづむ白雪    定 家
   『後拾』     見わたせば波の柵かけてより卯花咲ける玉川の里    相 模
   『千載』     松風の音だに秋はさびしきに衣うつなり玉河の里    俊 頼
    同     氷柱ゐてみがける影のみゆるかなまことに今や玉川の水    崇徳院
    同     月さゆる氷のうへに露ふり心くたくる玉川のさと    俊 成
   『新勒』     けふよりは波にをりはへ夏衣はすや垣ねの玉川の旦    前関白
   『続拾』     白妙の衣はすよりほととぎす啼くや卯月の玉河のさと    家 隆
   『千載』     玉川と音に聞きしは卯の花を露のかぎれる名にこそ有りけれ     仁和後法親王
   『玉葉』     卯の花の露に光をさしそへて月にみがける玉川の里    為 教



玉川の里(たまがわのさと)  高槻市玉川1

 
 玉川の里
玉川の里は、先刻六玉川の1つ摂津の玉川として、平安時代から多くの歌集の歌枕につかわれて、多くの人々に親しまれてきました。
 千五百首
  玉川の岸の卯の花さきぬれば汀にしらぬ汲そたちける  良平
と歌われているように、昔の玉川は推量が豊かで岸辺には波がうちよせ、初夏には香りゆたかに卯の花が咲きみだれていました。
古歌に卯の花の玉川とあるのはこの地のことであります。
またこのあたりは、卯の花やつきの名所として名高く、多摩川はしあたりにたたずむと月が流水に映り、十一ヵ国の山々が見え、観月台の水蜂に映る月は弥陀三体を現すなどともいい伝えられてきました。
昭和42年に、多くの古歌によまれている卯の花が高槻市の市民の花に指定されました。
                    昭和57年3月  高槻市教育院会




芭蕉句碑 「うの花や くらき柳のおよびごし」



うのはな(ユキノシタ科) -市民の花- 昭和42年3月17日選定
玉川うの花樋の歴史
江戸時代、西面(さいめ)村は「玉川湖沼の面の西」として存在していた。玉川湖沼の水は、源の阿武山より流れ、西河原疣水神社西方を経て流れ込んでいた。
一方、番田組の悪水は、柱本村領で排出されたものを高槻城主永井直達により大塚村の西で新川及び芥川を伏せ越し、芝生村から西に開削されたほぼ3里に及ぶ井路を経て、玉川に導かれた。
川幅が拡大された玉川・安威川には、隔流堤が別府村の上まで1600間あまりにわたって築かれ、悪水は安威川から神崎川に流入することになった。
西面村は条件として、玉川うの花樋と地蔵堂樋を設置させたものである。これは今より310年前のことである。
 新しき時代その名残を偲ぶ、
 平成22年3月吉日   西面実行組合 西面自治会 神安土地改良区



番田水路 隔流堤で水路が二分されています。 
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