高槻城(たかつきじょう) 古は高月と書す。地名を野身郷高月邑といふ。乱国の時ここに大木の槻あり。
本陣と定められしより槻の字に改む。城主初めは近藤連といふ。これを高月殿と称す。十二代の後入江左近の時没落す。
その後和田伊賀守・高山右近居城し、元和年中に土岐山城守・松平紀伊守居し、寛永十三年より岡部美濃守・松平若狭守、慶安二年より永井侯居城す


高槻城跡(たかつきじょう) 高槻市城内町
久米路山龍ヶ城(くめじやま)ともいい、正暦の頃、近藤氏が久米山を開発したのに始まる。
14世紀前半に、入江春則(いりえはるのり)が居城としている。
永禄12年(1569)和田惟政(わだこれまさ)が城主となったが、元亀4年(1573)、その子と対立した高山飛騨守・右近父子が和田氏を滅ぼし城主となる。


城跡碑  その後、豊臣・徳川氏の直轄となり、大阪夏の陣(1615)後、内藤・土岐・岡部など譜代大名が城主となる。
そして、慶安2年(1649)永井直清(ながいなおきよ)が入城し、明治2年(1869)城地を奉還するまで、13代230年永井氏の藩政が続いた


城跡公園  明治7年(1874)層の天守閣を誇った名城も東海道線敷設の用材として完全に破却された。
昭和50年の調査で本丸石垣の基礎部分を発見。今も地中に遺構が眠っている。


高山右近像  西森 方昭 作。
同じ像が流刑地のルソン島(フィリピンのパコ・パーク)と、前田利家に命じられて城の縄張りをした高岡城跡(高岡古城公園大手口)にある。



高槻城模型 17世紀のはじめに三層の天守を備えた近世城郭となる。


鯱瓦 城は明治7年(1874)に東海道線敷設の用材として破却された。
1972年3月ロータリークラブの寄贈。
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