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補陀洛山惣持寺(ふだらくさんそうじじ) 寺領惣持寺村にあり。真言宗古義。西国巡礼所第二十二番
本噂十一面千手観世音 和州泊瀬観音化現童子作。栴檀香木長三尺)脇士(左春日明神。右天照大神)試観音(方丈に安置す。本尊と同作。長六寸)
奥院(本尊阿弥陀仏。恵心僧都作)山蔭政朝卿廟(奥院にあり)姫塚(奥の院一町東にあり。山蔭の室息女等の塚なり)薬師堂(同村の中にあり。薬王寺とすす。本尊安阿弥作。長二尺五寸)
古鐘銘『朝野群載』に出でたり。その鐘亡びて今新鐘あり。古銘に日く、?に祖父越前守藤原朝臣、心を普門妙智に帰し、首を無礙大悲に傾むけて、墜露法然、閃電條爾、納言尊考、先業の遂げざるを軫ひ、善因のいまだ成らざるを欺き、多く、黄金を以て入唐使大賀御井に附し、白檀香木を買得し千手観音菩薩を造りて惣持寺と日ふ。ここにおいて第二男備前権介公利豊鐘一口を鋳る。時に延喜十二年夏四月八日。
寺説に云ふ、惣持寺は宇多帝寛平二年越前太守藤原高房卿の草創にして、一条院・後一条院・白河院・鳥羽院の四帝行幸あらせられ勅顧所と成り庄園を賜ふ。厥后後小松院宸翰の寺記を賜ふ。今なほ存せり。元亀年中高山右近が兵火に講堂ことごとく灰燼となる。その時尊像火中に在って焚くる事なし。慶長八年六月豊臣秀頼公講堂再興ある、奉行は片桐東市正(かたぎりいちのかみ)とぞ聞こえし。
『伽藍開基記』大意、
摂州島下郡に名刺あり。関西二十三所観音の霊場なり。初め越前大守藤原の高房卿志性清慎iこして常に観自在に帰し、承和中筑紫太宰府に遷る。嘗て舟を淀川に乗して穂積橋に至る時に漁人亀を多く携へ行く。高房これを悉く贖ふて用水に放つ。忻然として日く・今日すなはち大士の誕辰なり。そのとき一つの大亀首を挙げて高房を顧去る。春宵二月十九日の夜東の山嶺に玉免漸く昇る。乳嫗小公子を抱く。誤って水中に堕としければ高房愕然として観音を念ず。忽ち一亀かの児を負て水面に浮み微笑するを見る。高房大いに喜びて日く、信に大悲の神力少なからず。昨日亀を放つ。今日子を救ふ。何ぞ感応の速かなるや。つひに宰府に倒る。時に唐国の人僑といふもの有りて高房これに語って日く、我大悲の像を造らんと欲すれどもいまだ良材を得ず。
人僑が日く、吾本国清涼山の麓の湖中に白檀木あり。時々光を放つ。高房悦び換の黄金を人僑にあたへて国に帰らしむ。人僑既に像材を得てすなはち日本へ渡さんと官府に奏す。しかれどもこれを許さざりけれは人僑その木に文字を彫って日く、栴檀香木(長三尺六寸、周四尺八寸)日本高房に寄する。かくのごとくして東海に浮かむ。高房薨じて後、黄門郎政朝(こうもんろうまさとも)また鎮西に遷り国中を巡行するに村民告げて日く、この海辺夜毎に光あり。黄門その所に至ってこれを見るに清涼の香木なり。感激殊に甚だしく、まさにこれ観自在の応験なり。早く大悲の像を造って君父の遺意に報ずべしとて、香木を携へて京師に赴く。摂州島下郡この地に至りて暫く憩ふ所に像材重き事磐石のごとし。黄門驚いて密に祈呪して日く、もしここに縁あらは尊像成就の後この地に安ずべし。ここにおいて軽き事故のごとし。良工を択むに就いて和州長谷寺に詣しこれを祈るも七日にして大士告げて日く、明晨その人に遇ふペし。翌日果たして一人の童子鐫刀を持して来る。その形甚だ醜し。黄門問ふて日く、汝よく吾為に夫悲の像を刻まんや。童子答へて我拙工なれども君もし許したまはば彫刻し奉らん。黄門大いに喜び伴ふて京師に帰る。家人童子を視て讃して日く、この良材再び得難し。先づ他木を以て試みたまへといふ。すなはち小像を作らしむるにその貌絶妙なり。かるがゆゑに一室を構えて童子を延いてこれを造らしむ。童子日く、われ戸を閉ぢて千日に千臂を刻まん。黄門これを諾して斎戒精神する事三載、期に臨んで戸を開きこれを視るに、童子の所在をしらずして大悲の像厳然として荘厳具足の尊容なり。ここによってまさに知らる、童子すなはも長谷観音の応化なり。尊像の霊験いもじるし。いまだ幾ならずして黄門没去す。時に仁和四年二月四日なり。息に七男七女あり。寛平二年先父の大祥忌に値ふて遺誓あれば、今の地に宝殿を創して尊像を安ず。号けて補陀洛山惣持寺として冥福を薦めしむ。これより霊応益新なり。厥后、後小松帝寺記の宸翰を賜ふ。ここにおいて愈光耀をまし、四衆これに謁する事水の叡に赴くがごとし。


仁王門
総持寺(そうじじ)   茨木市総持寺1-6-1 高野山真言宗 補陀洛山  元慶3年(879)創建。
藤原山蔭が、幼少時に継母に川に捨てられたが、父の藤原高房に観音の祭日であるために助けられた大亀によって救われ、
それに感激した高房が亀に乗った観音菩薩像を製作させて祀ったのが起源とされる。
仁王022 仁王012
金剛力士像

本堂01
本堂






本尊:千手十一面観音
亀乗り観音:政朝の造立。 脇侍:善女竜王像、雨宝童子像(桃山時代)
政朝2歳の時、父高房について太宰府へ赴く途中、淀川に落ち大亀に助けられたことから、
日頃信仰する初瀬観音のおかげであると本尊の彫造に傾注したといわれる。


金堂01

金堂 薬師如来を安置。

弘法01
大師堂

開山堂01
開山堂  宮中料理を四条流包丁式として大成した藤原山蔭の命日、4月18日には包丁式が奉納される。

地蔵
水掛地蔵?  社務所前から前の地蔵堂前に移す。屋根は取り払われている。

閻魔堂02
閻魔堂?  地蔵堂の名を改めたものか。開山堂の建設で日本包丁道元祖山陰中納言の建物が無くなり、亀の池と水掛地蔵が閻魔堂によせられた。

五社稲荷01
五社稲荷?

不動明王堂01
不動明王堂?

荒神社02
荒神社?

経堂
経堂?

蔵
蔵?

鎮守社
鎮守社?  大黒天・弁財天・青面金剛

善悲観音01
善悲観音?  ぼけ封じ観音の「普悲観音像」を安置。

鐘楼
鐘楼?

総持寺01
東門

境内図
境内図


総持寺 奥院 茨木市三島町5-32
『大阪史蹟名勝天然記念物』に「中納言山蔭墓は奥院に在り、濠渠を繞らしたる封土に1基の五輪塔あり、中央に「中納言山蔭郷」左側に「寛永21年2月4日」右側に願主當住法印隆度とあり。表面の左右側に當寺開基800年忌とあれば800年忌の供養塔なり。」とある。 現在は奥院の建物は見当たらず、総持寺霊園となっている。


中納言山蔭郷の墓  包丁道の始祖、山蔭郷(藤原政朝)の墓。


姫塚 茨木市総持寺1-19
大阪府全志に「またその東方に姫塚と称するあり俗に女郎山(じょろうやま)といい、中納言の室及び息女の墓なり」
『大阪史蹟名勝天然記念物』にも「東方に姫塚と称する丘あり。丘を女郎山という。亦1基の五輪塔を置く。銘あり「山蔭郷御臺」と刻す。盖し山蔭の室を葬りしものにして塔は山蔭のものと同時に造りしなり」と記述されている。


山蔭郷御臺の墓


薬王寺(やくおう) 茨木市総持寺1-16-4
妙雲山(みょううんざん)  浄土宗
天平年間(729〜748)行基菩薩の開基、明和9年(1772)大義和尚の開山、尼寺。

薬師堂  本尊:薬師如来

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