関戸院旧蹟(せきとのいんのきゅうせき) 関明神の西、町の中にあり。故関の跡、今不詳
源公貞が大隅へまかり下りけるに、せきとの院に月のあかかりけるに別れをしみ侍りて
   『拾遺』   はるかなる旅の空にもおくれねばうらやましきは秋のよの月    平兼盛
   『新古』   せきとの院といふ所にて羇中月(きちゅうのつき)を見るといふ心を
           草まくらほどぞへにける郡山でていく夜か旅の月にねぬらん   大江嘉言
それとの大山崎の駅路は京師九条東寺の西、四つ塚より(羅城門の旧地)西南に続き、桂川久世橋を渉り、向町を歴て山崎に向かひ、城摂の界関戸院の旧跡に至る。これ関西三十三州の官道にして、文禄年中、豊臣秀吉公朝鮮征伐の時開く所なり。かるがゆゑに唐海道といふ。古は羅城門より南へ官遺ありて、久我縄手・淀の大渡りを越えて、山崎橋をわたり、関戸院に至る。これより南は芥川・宿河原(今の郡山)・瀬川・昆陽より、西宮・兵庫・須磨・明石浦に至るなり。『周礼』に日く「すべて国野の道、十里に廬あり、廬に飲食あり、三十里に宿あり、宿に路室あり」。『左伝』に日く「楚子乗駅にあり、駅は駅馬なり」。すなはち馬逓の制すでに周に見えたりといふ。これらの制を護りて往還の旅人を安からしむるを官道といふなり。
   『古今』   源のさねがつくしへゆきなんとてまかりける時に、山ざきにてわかれをしみける所にてよめる
           いのもだに心にかなふ物ならは何か別れのかなしからまし     遊女しろめ
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