桜井宿(さくらゐのしゅく) 河摂泉三州太守贈正三位右近衛中将橘朝臣楠 判官正成といふ人、胸には経天緯地の才を蔵め、腹には安邦定国の謀を密し 、武威天下に振るひ勇名四海を動かし、鬼神不測の妙を究む。和朝無双の英 雄なり。廷元元年五月、後醍醐帝の命により足利の討手として是非なく兵庫 へ赴く時、子息正行をこの桜井宿にて呼び迎ひ、討死の事を云ひ聞かせ遺訓 をして親子別るる所なり
『太平記』に日く、また『三楠実録』ほぼ同文、   
尊氏直義大軍を率して九州より上洛の間要害の地において防ぎ戦はん為 に兵樺に引き退きぬる由、義貞朝臣早馬を進せて内裏に秦聞ありけれは、主 上大いに御騒ぎ有って楠判官正成を召されて、急ぎ兵庫へ罷り下り義貞に力 を合はせて合戦を致すべしと仰せられければ、正成畏つて奏しけるは、尊氏 すでに筑紫九国の勢を率して上洛致し侯なれば定めて勢は雲霞のごとくにぞ 候らん。御方の疲れたる小勢をもって敵の機に乗りたる大勢に懸け合ふて尋 常のごとくに合戦を致し候はば、御方決定打ち負け候ひぬと覚え候なれば、 新田殿をもただ京都へめされたまふて以前のごとく山門へ臨幸なし候べし。 正成も河内へ罷り下り候て畿内の勢をもって河尻を差し塞ぎ、両方より京都 を攻めて兵粮をつからかし候程ならば、敵は次第に疲れて落ち下り御方は日 々に随って馳せ集まり候べし。その時に当たって新田殿は山門より推し寄せ られ、正成は搦手より攻め上り侯はば、朝敵を一戦に滅す事掌中に在りと覚 え侯。新田殿も定めてこの料簡候得ども、路次にて一軍もせざらんは無下に 云ひ甲斐なく人の思はんずる所を恥ぢて、兵庫に立へられたりと覚え峡。合 戦は兎ても角ても始終の勝こそ肝要にて候へ。能々遠慮を回らされて公議を 定めらるべくにて候と申しければ、まことに軍旗の事は兵に譲られよと諸卿 僉議有りけるに、重ねて坊門宰相清忠申されけるは、正成が申す所もその謂 有りといへども、征罰の為に差し下されたる節度使、いまだ戦ひを成さざる 前に帝都を捨てて、一年の内に二度まで山門へ臨幸ならん事、且は帝位の軽 きに似、または官軍の道を失ふ処なり。たとひ噂氏筑紫勢を率して上洛すと も、去年東八箇国を順へて上りし時の勢にはよも過ぎじ。およそ戦ひの始め より敵軍敗北の時に至るまで、御方小勢なりといへども毎度大敵を頁め靡さ すといふ事なし。これ、まったく武略の勝れたる所には非ず。ただ聖運の天 に叶へるゆゑなり。しかればただ戦ひを帝都の外に決して敵を鉄鉞の下に減 さん事、何の子細かあるべきなれば、ただ時を替へず、楠罷り下るべしとぞ 仰せ出だされける。正成この上はさのみ異儀を申すに及ばずとて、延元元年 五月十六日に都を立ちて、五首余騎にて兵庫へぞ下りける。正成これを最期 の合戦と思ひければ、嫡子正行が今年十一歳にて供したりけるを、思ふやう 有りとて桜井の宿より河内へ返し遣はすとて庭訓を遺しけるは、獅子子を産 んで三日を経る時数千丈の石壁よりこれを擲ぐ。その子獅子の機分あれば、 教へざるに宙より跳ね返りて死する事を得ずといへり。いはんや汝すでに十 歳に余りぬ。一言耳に留まらば我が教誠に違ふ事なかれ。今度の合戦天下の 安否と思ふ間、今生にて汝が顔を見ん事これを限りと思ふなり。正成すでに 討死すと開きなば、天下はかならず足利尊氏の代に成りぬと心得べし。しか りといへども、一旦の身命を助からん為に多年の忠烈を喪ふて降人に出づる 事あるペからず。一族若党の一人も死に残りあらん程は、金剛山の辺に引き 籠って敵寄せ来たらは、命を養由が矢前に懸けて、魂を紀信が忠に比すべし 。これを汝が第一の孝行ならんずると泣く泣く申し含めて、おのおの東西へ 別れにけり。昔の百里奚は穆公晋(ぼくこうしん)の国を伐ちし時、戦の利 無からん事を鑑みて、その将孟明視に向かって今を限りの別れを悲しみ、今 の楠判官は敵軍都の西に近付くと聞きしより国かならず滅びん事を愁ひて、 その子正行を留めて無き跡までの義を進む。かれは異国の良粥、これは吾朝 の忠臣、時千載を隔つといへども前里後聖一揆にしてありがたかりし賢佐な り。(下略)
   撫子にかかるなみだや楠の露                  はせ を



史蹟 櫻井驛阯(さくらいのえきあと) 
(楠正成傳説地)史蹟天然紀念物保存ニ依リ大正十年三月内務大臣指定
古代律令制度下の駅家(うまや)の跡。
この地は、「太平記第16巻」の「正成兵庫に下向の事」(湊川の戦い)において1336年、足利尊氏を討つべく湊川に向かう楠木正成が嫡男正行を河内国に帰らせた所。

  A TRIBUTE BY A FOREIGNER 
      TO THE LOYALTY OF 
     The Faithful Retainer" 
     KUSUNOKI MASASHIFE 
   who parted from his Son 
          MASATSURA 
At this spot before the Battle of the 
    MINATOGAWA  A.D.1336. 
     HARRY S. PARKES 
   British Minister of Japan 
      November,1876. 
楠公訣児之處(なんこうふしけつじのところひ)  大阪府権知事 渡辺昇 書    明治9年(1876)11月建立。


楠公父子訣別之所   陸軍大将乃木希典謹書。
大正2年(1913)7月20日献碑。 明治9年に英国公使パークスが碑を建立しているのに感激した参謀の伊豆凡夫少将が楠公崇敬家の乃木に発案。
殉死の1ヶ月前に揮毫。日露の名将、花と散ると、国民敬慕の的となり、寄付金が集まり完成した。


明治天皇御製   子わかれの 松のしずくに 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらゐのさと
伯爵東郷平八郎謹書
御製は明治31年(1898)11月三島地方での陸軍大演習に行幸の際、この地で詠まれた。 昭和6年3月17日建立。

楠公父子子別れの石像
「滅死奉公」 侯爵近衛文麿 書
昭和15年(1940)新京阪電鉄(現阪急)
駅前に銅像として建立。
金属供出でコンクリート製となる。
平成16年再建。
忠義貫乾坤碑
(ちゅうぎけんこんをつらぬくひ)

明治27年(1894)建立。 
もと石像と共に青葉公園にあった。


旗立松(はたたてまつ)
西国街道の端にある枝を拡げた老松のもとに駒を止め、楠木父子が決別をしたと伝えられています。
明治30年(1897)に枯死す。


『山崎通分間延絵図』にも旗立松が描かれています。
HOME > 巻之五 島上郡
inserted by FC2 system