能因法師墳(のういんほうしのつか) 古曾部村にあり。
能因幽棲の古蹟なり。碑碣、林道春題す。
『後拾遺』 津の国古曾部といふ所にて読める
我が宿の梢の夏になるときは生駒の山ぞ見えずなりけり 能因法師
同 対馬守になりてまかりくだりけるに、津の由のほとり能因法師がもとへつかはしける
命あらは今帰りこん津の国の難波堀江のあしのうら薬に 大江嘉言
『新古今』
大江嘉言対馬守になりて下るとて、難波堀江のあしのうら葉にとよみて下り侍りけるほどに、国にてなくなりにけるとききて
あはれ人けふの命をしらませは難波のあしに契らざらまし 能国法師
碑銘 羅山子
能因法師は、左大臣橘の諸兄十代の孫なり。本名永?(ながやす)。父、肥後の守元?と日ふ。永?、文章生に補し、肥後の進士と号す。後に世を遁れて名を能因と改む。古曾部の入道と号す。和歌を善くす。この道、昔、師弟無し。能因に至りて、初めて、長能をもって師と為す。果たしてしかり。否。嘗て秋風白河の関の詞有り。世もつて美談と為す。兵部の大輔大江公資、五条東の洞院宅の庭に大桜の樹有り。毎年能因、古曾部より洛に入り、往きてその花を玩ぶ。花もまた、人に依りてその名いよいよ顕る。後冷泉院永承四年、禁裏歌合の時、能困和歌を献る。三室山の楓・屯田川の錦の句有り。また栄ならずや。その余の詠歌繁多、枚挙すべからず。摂州高槻の城辺にその旧跡有り。今略、その姓名を書してもつて後世に伝ふと云ふ。
慶安三年春三月日
日向守大江姓永井氏真清置
花之井(はないのゐ) 別所村にあり。
清泉寒暑に涸れず。傍に碑銘あり。摩滅して見えず。
あるが日く、一名山下水といふとぞ。古曾都入道の和歌によるか
『新古今』 山水をむすびてよみ侍る
足引の出下水に影みればまゆ白妙にわれ老いにけり 能因法師
能因塚(のういんほうしつか) 高槻市古曽部町3
平安時代中期の歌人、能因法師の墓。本名を橘永?(たちばなのながやす)といい永延2年(988)長門守橘元?の子。女流歌人伊勢の作風を慕い、藤原長能に歌道を学ぶ。墓は高さ1.8m、東西16m、南北25.5mの円墳。
能因顕彰碑 慶安3年(1650)3月高槻城主永井直清の建立。撰文は林羅山。
橘永?は肥後ノ進士と号し、この地に隠棲し古曽部入道と号し、能因と改めた。
歌碑 やまざとのはるの夕ぐれきてみれば いりあひの鐘に花ぞちりける (新古今)
花の井(はなのい) 高槻市古曽部
古くから名水の井戸として知られ、別名山下水ともいわれた。
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