西観音寺(にしのかのんじ) 山崎の西にあり。慈悲尾山信善谷といふ。天台宗
御 集
水無瀬山木の葉まばらになるままに尾上の鐘の声ぞちかづく  後鳥羽院
本等十一面千手観音(閻浮檀金(えんぶだごん)像、長一寸八分。脇士、左不動尊、右毘沙門。当山に三つの谷あり。いはゆる大谷・中谷・閼伽谷等なり。ゆゑに世に谷の観音と称す)鎮守(天照大神・八幡宮・春日・山王・大宮・八王子を祭る)閻魔堂(当寺の入口にあり。小野篁ここに来たり、閻魔王および十王の像を彫刻し、日本三所に安置す。いはゆる第一は越中中野郷、第二は当山、第三は筑後古津郡なり)
それこの観音寺は旧地これより西南の山間にして、むかし聖武帝天平十八年、大僧正行基勅をうけて草創し、本尊はかの帝の御念持仏なり。その後、役小角苦修錬行し、天下の名嶽・霊窟に分け入って残す事なし。一日ここに巡行して高嶺に登り石上に坐し、呪術をもって閼伽(ちか)を湛へたまふ。今の閼伽谷(あかたに)これなり。その流れ潺々として堂前の滝となる。ここに石像の不動尊を安ず。また山頭に弁財天祠あり。これも役行者の勧請とかや。台嶺の伝教大師もこの山に入りで練行したまひ、後鳥羽上皇も水無瀬よりここに駕をめぐらし木尊大悲を尊信したまふ(已上寺記)。



西観音寺塔頭跡(にしかんのん) 島本町山崎5
サントリーの受付から椎尾神社一の鳥居までの参道に宝泉院・明王院・円修院・橘園院の4つの塔頭があった。
慶應4年(1868)神仏判然令が出ると、門前の農家が寺の存続を願うも、4塔頭の僧侶は還俗して寺は壊された。


(山崎通分間延絵図) 西観音寺は天台宗比叡山正覚寺末で、慈悲尾山と号す。
本尊:十一面観音。天平18年(746)僧行基が聖武天皇の勅願所として開基。寛弘年中(1004~12)焼失、仁平4年(1154)河内の八戸重忠が再興。かつては12の僧坊があった。
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