邂逅山金竜寺紫雲院(かいこうぎんこんりゆうじしうんいん)成合村の出腹にあり。坂路八町。標石あり。天台律宗。
本尊普賢菩薩 脇士、左梵天王、右帝釈天。
開山堂 開山千観内供の影像を安ず。慶長七年三月豊臣秀頼公再興より六角堂と成る。中興宗俊法印なり。
そもそも千観内偵は初め三井寺に在りて顕密の法を学び、官寺の権豪を厭ひ、山林に隠る。また時々渡口に出でてみづから馬夫と成り、旅客の労を恵む。性質慈順にして面に嗔色なし。つねに微笑を含む。世の人笑ひ仏といふ。
邂逅池 本堂の西南にあり。池中に弁財天社あり。『能因歌枕』に云ふ、摂津国この池より
金竜騰りしより金竜池ともいふ。
   『玉葉』    春風に今は氷も玉坂の池のおもてはきざ波ぞうつ               家 隆
   『夫木』    うき世には有りえんこともたまさかのいけらんとだに思ひやはする     和泉式部
紫雲塔 方丈の上にあり。
牛頭天王祠 惣門の傍にあり。 甑巌 坂路六丁目にあり。 能国桜 鐘楼の傍にあり。 能困法師像 鐘楼の内に安ず。 池之坊旧跡 中門の傍にあり。
   『扶桑隠逸伝』日く、
偶春を惜しみ、金竜寺に登り、山路人無くして、落筆寂々たり。能因、煽らんことを知らず、日昏し、鐘動く時に、和歌を詠ず。今に至りてこれを諭す。
   『新古今』    山ざとにまがふてよみ侍りける
            山ざとの春のタぐれきて見れば人達の鐘に花ぞ散りける          能因法師v
それ金竜寺は桓武帝延暦年中、参議阿倍是雄卿の草創なり。
はじめは安満寺と号す。それより百余歳を経て千観内供再営より金竜寺と改めたまふ。この内供は中納言橘 公頼卿の二男相模守敏定の子なり。千観箕面寺に詣したまふ時、北の方に当たりて紫雲たなびく。これを尋ねて攀ぢ登りたまふに一つの小池あり。その水金色にして瑞雲もまたこの地より立ち登る。池の東に一宇の伽藍あり。釈尊の像を安置して安満寺といふ。まことに鍾声白雲に和し清浄人世に非ざるの古寺にぞありける。またこの山のすがたを見たまふに、西の方遠く晴れて日想観の便なきにLもあらず。南瞑はるかに眺みて故国三千里長江十二風の思ひをなす。これ霊域なりとて池の側に庵をむすんで居を卜めたまひける。今の池之坊はこの旧蹟なり。またこの池より竜女現れ出でて法水を甘んじ成仏す。これより金竜寺と号く。安和二年天下早の時冷泉帝千観に勅して祈雨ありけれは、たちまち膏雨降って万民大平を諷ふ。その後康保元年一字を建てて普賢の像を安置す。内供ある時山崎の橋下へおはして橋占を聞きたまひけるiこ、あやしの童牛に騎りて髪にはねかづらといふものを結ひけるが、声を上げて歌ひける。十悪五逆謗方等極重最下の罪人も一度南無と唱ふれは引接さだめて疑ひなしと、くり返しくり返し諷ふてかき消すやうに失せにける。内供かの童の言葉を和歌にぞ詠じたまひける。
            おそろしや十悪五逆謗方等ほどなき身にもつもる罪かな          千 観
そもそも山崎の橋は天平年巾僧正行基かけ初めたまひしより勅ありて度々わたさるといへども河水E漫して今の世にはなし。橋本の宿のみあづかに遺れり。かの源信僧都は橋本の亜女にとひて袂をしぼり、内供は橋占を聞いて涙を落としたまふ。
ある時雲山に彗深うして梢も見えわかず、谷陰氷結んで筧の水も音たえ、山房寂寥として人跡稀なりければ、かくぞ詠じたまふ、
    『続古』     たまさかに見るだにさびし世のつねの雪のみやまを思ひこそすれ   千 観
    『後拾遺』    法の身の月はわが身をてらせども無明の雲の見せぬなりけり      同
この詠は勅撰の中にも入りしなり。初めの邂逅の五もじより山号となれり。永観元年大呂十三日寿齢六十六歳にて入寂したまひぬ。
已上『元亭釈書』および寺記等の大意をここに著す。



金龍寺(こんりゅうじ) 高槻市成合
明治以後無住となり荒廃し、昭和58年(1983)4月に焼失す。

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