応頂山勝尾寺菩提院(おうちょうさんかちをじぼだいいん) 勝尾山の高領にあり。旧名弥勒寺。古義真言宗。坊舎二十三坊。『摂陽群談』に豊島郡に入れしは誤なり
柴の戸にあけくれかかる白雲はいつむらさきの宮と見なさん   法然上人
この歌は法然上人土佐国より帰洛の御時、ここに暫く山居したまふをりからの詠なり。法然上人自画讃当山にあり。円光大師旧蹟二十五霊場のその一なり。
講堂十一面観世音(これ当寺の本尊なり。栴檀香木を以て妙観律師化人(みょうかんりっしけにん)とともに作りたまふ。西国巡礼所第二十三番)
如法堂薬師如来(開成皇子一刀三礼して彫刻の尊容なり。皇子遷化の時、この尊像涙滴仏座を浸したまへり。世に泣薬師と称す。『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ)に見えたり)
般若台(奥院六角堂と称す。開成皇子書写したまふ大般若経を蔵むる所なり)文殊堂(奥院にあり。開成皇子彫刻したまふ。文殊菩薩を安置す)釈迦堂(東谷にあり。釈尊大日如来を安ず。二尊ともに開成皇子の所造なり)開山堂(当山の鼻祖善仲・善[草弄]の二師、開成皇子・行巡上人等の影像を安ず)三宝荒神社(講堂の西にあり。日本最初出現)白槇木(荒神祠の中にあり。百済国より渡る。香気今に四方に薫ず)鎮守三所権現(講堂の西にあり。諏訪・八幡・蔵王を祭る)蛭子祠(荒神の後にあり)護摩堂(五大尊を安ず。弘法大師の作)御影堂(弘法大師の像を安ず)輸蔵(如法堂の東にあり。『続日本紀』日く「景雲の年八幡宮の告によって天長年中に至り大宰府に仰せて一切経を写さし弥勒寺に蔵む」)影向石(本堂の北にあり。開成皇子般若経を書写したまふ時、八幡宮この石上に影向ましまし浄金水をあたへたまふ。皇子このよしを尋ねたまふに八幡宮偈文を以て答へたまふ。次下に見えたり)諏訪祠(本堂の東にあり)閼伽井(諏訪祠の下より涌き出づるなり)二階堂(当山の上方にあり。本尊阿弥陀仏、恵心僧都の作なり。御厨子の壁板に善導大師像、法然上人像あり。布薩戒を授けたまふ所なり。また、證如上人の影を安ず)聖天尊祠(本堂の西にあり。以空僧正の勧請なり)坐禅石(山頂にあり。皇子坐禅したまふ所なり)開成皇子石塔婆(坐禅石の傍にあり)弥勒銅像(長丈六。奥院にあり。上に堂舎なり。希代の大像なり。麓よりも顕然と見ゆる)西方松(奥院にあり。皇子般若経を奉納の時、この松自ら礼をなしけるとぞ)大黒石(坐禅石の更にあり。石の形を以て名とす)達林房(同所にあり。奥州松島瑞岩寺の雲居禅師のl旧跡なり)證如上人塔(山峰にあり。この所より浪花および西の方灘の浦々、和泉、紀の浦まで眸に遮りて風色斜ならず)加古義信塔(同所にあり。播州加古の人にして道心堅固の大穂なり)滝谷神呪院(以空上人の旧蹟なり。三密堂の額自如の筆)不動石(滝谷にあり。高さ三丈ばかり。形を以て名とす)阿弥陀屋鋪(同所にあり)祖節火定石塔(同所にあり。釈氏祖節天徳火中の定に入りたまふ所なり)頼朝塔・梶原塔(共に護牌堂の西にあり。寿永兵乱の後源頼朝公、梶原平三景時に命じ講堂再興したまふ。寄附状今にあり。相原が執筆なり。その功徳を以てここに塔婆を立てる)法華供養塔(同所にあり)熊谷塔(奥院にあり)阿部丹波守光明塔(愛染堂の前にあり)光明院御塔(東谷にあり。後伏見院第四の皇子。諱豊仁。建武三年八月十五日践祚。十二月二十八日即位。康暦二年六月二十四日崩じたまふ。遣勅によって当山に蔵むる所なり。元禄己卯の歳、公命によって新に牆を造らしむ。『帝王正統録』云ふ「光明帝康暦二年六月二十四日勝尾寺の御草庵において崩じたまふ。聖寿六十歳。日来光明院と号し奉る。別謚に及ぶべからずの遺勅なり」)八天石像(開成皇子の建つる所なり。五大尊四天王を勧請しける)鐘楼(鐘は中華宋国淳化元年に百済国王の后妃これを献ずる所なり。金鐘にして亘三尺五寸。『元亨釈書』に出でたる名鐘といヘども、元暦の兵火に滅びしかばその金鐘を模して新たに鋳る。この鐘もまた元和二年九月十四日に滅びけり。それより正保年中に及んで重ねて新鐘を鋳る)幸寿丸旧蹟(知足院にあり。習学の古跡なり。今画彫あり)二尊院(知足院の東にあり。また松林庵ともいふ。本尊阿弥陀仏は恵心僧都と安阿弥と一躯両作なり。世に背競のあみだといふ)祓荒神祠(前坂にあり)木食庵(二階堂の傍にあり)愛染木・瓶花木(ともに経堂の左右にあり)楼門(金剛力士の二躯を安ず)額応頂山(勅額)一衡門(勝尾山より三十六町。麓粟生新家村、路傍にあり。勝尾寺、勅額) それ当山の開基善仲・善[草弄]は摂州の刺史藤原致房の双児なり。母は源氏紀州の刺史懐位の第八の女なり。慶雲四年正月十五日の夜夢に蓮華二茎空より飛び来って口に入ると見て夢覚めぬ。それより妊身にしてつひに和銅元年正月十五日平且に出誕す。母病苦なし。しかも室内に異香あり。一胞の中に二児相対す。啼哭せず常に笑を含み孩雅聡慧に在って群孺に超えたり。九歳にして天王寺の栄湛(えいたん)を師とし、十七にして剃髪し菩薩戒を受け、甫めて冠歳にして学内外に通ず。みな日く、夙智の開発すとぞ。 二人常に頭を並べて相語って涙を流す。人これを測る事なし。神亀四年の春二人潜に山に入って遥かに一峯を見る。紫雲靉靆せり。思ふにこれ必ず霊地ならんとて草庵を結んで安居清修す。今の勝尾山これなり。径行の地苔蘚にして鳥獣群をなす。常に共に嘆じて日く、願はくはこの身を捨てずして必ず浄刹に往かん。神謹景雲二年二月十五日に仲草座を乗じて忽ちに飛び去る。年六十一。しかりし後[草弄]禅座す。同三年七月十五日天に沖て西に捜す。歳仲に準へて知るべし。  ここに開成皇子といふあり。光仁帝の御子、桓武天皇の兄なり。幼ふして敏潁仏乗に志す。天平神護元年正月一日潜に宮中を出でて勝尾山に入り、石を畳んで塔をなし、その側に禅宴す。二月十五日仲[草弄]葬の二師山中に径行す。適これを見て問ひて日く、神彩麗観にしてまた孔稚たり。何のためここに来り。皇子素意を告ぐる。二師驚いて日く、巳に四旬、余何を以てか喰としたまふ。皇子答へて二鳥物を御みて石塔の上に置く。我これを甞るに、甚だ甘美なり。日々かくのごとし。それより雨露にも霑れず、二人共に嘆嗟し引誘して庵に帰る。即日二師に就いて剃髪受戒す。その時本有の五智を証し、法雷の五趣を震ふの二句を授けて篭を譲りて他に行く。初めに二師願を発して大般若経を書写す。啓白の日黒雲俄に起こりて雷地に落つ。これを霊所として般若を置かんと規る。今の最勝峰これなり。それより開成皇子当山の貫首としまた般若を写さんとて浄金水を祈る。七日に満ずる夜、夢に容儀端厳なる衣冠の人手に青綿の苞を持ちて石上にたつ。我この金を以て師と共に泥墨となさん。皇子これを受けて誰人なるやと問ふ。かの人偈を以て答へて日く、得道以来性を動ぜず。八正道より権跡を垂る。能く苦の衆生を解脱することを得る。かるがゆゑに八幡大菩薩と号す。夢覚めて凡上を見るに金銀あり。径三寸、長さ七寸。皇子感喜してその所に立てる、石今なはあり。水を祈る事一日、夜夢見る。一人北方より飛び来る形夜叉のごとし。八幡宮我に天竺白鷺池の水を取って師の経滴に克つべしと命ず。すなはち信州諏訪の南宮の神なり。寤めて見るに清水閼伽器に盈つれば皇子これをもって大般若経を摸写す。宝亀三年二月の夢に八面八臂の鬼その尺丈余百千の眷属を率ゐて各経帋を取って山谷に散らす。夢覚めて魔障なりと知れども慰供の軌則をしらず。忽ちに二鳥飛び来って祭文の儀軌を落とす。皇子これによって供祭す。これいはゆる荒神供なり。般若の功畢つて雷堕の地に道場を建てて拝を安ず。遠く竜華の会を期す。ゆゑに弥勒寺と号す。宝亀のはじめ、光仁帝金水の事を聞きて官租を拾して如法堂を造る。桂窟の居を移し、弥軌寺成就に逮んで田数百畝を投じて寺産とす。天応元年十月四日、香炉を手にして西に向ひ、低頭して入寂す。寿五十八、時に自ら薬師の像を刻みて率事す。遷化の時この像涙滴して花座に至る。今なほ涙痕新湿のごとし云々。伝へ聞く講堂既に成っていまだ本尊あらず。皇子八尺の白檀木を得たまひ、これを以て像材となさんと思ひたまへども良工あらず。宝亀十一年七月五日沙門妙観ここに来って、われ能く刻まんとて七八人の僧侶を伴ふて速かに千臂千日荘麗端厳の像成る。また四天王の像を加ふ。すべて五尊三十日にして成就す。八月十八日妙観合掌して化す。従ふ所の十八人見えず(これによって十八日を観自在の日とす)。 百済国の后妃美姿なり。国王愛重したまふに壮齢に邁ぎざるに、その髪早く白し。后これを愁ひて霊薬を服し法験を求むといヘども効なし。一夕后の夢に、日本勝尼寺千手大悲霊感ならびなし。これを祈れとぞ。后大いに悦んで日本に向ひ祈願す。忽ち髭紺碧にして始めに過ぎたり。これによって二人の官位来朝し閼伽器・金鼓・金鐘等の宝物を持ち来りて本尊に献じ伴の旨趣を語りける。 證如上人はこの勝尾山に住居したまふ。姓は時氏。当国豊島郡の吏佐通が子なり。
弥勒寺の謹道に随ひ顕密の二教を学び修練にたへたり。すべて住山する事五十年ヽある時別に草盧をむすびて言語を絶し、専ら練行怠らず。一夕天楽空にひびきければ怪しんでこれを聞く。忽ちに人有って戸を叩く。證如無言なれば磬をならして答ふ。戸外の人日く、我はこれ播州賀古郡の駅民沙弥教信たり。今極楽に往生す。明年今日上人もまた我ごとくなるべし。聖衆と共に来りたまへと語り巳つて去る。微光廬にかがやく。これより聚洛を巡って仏乗を讃説し念仏を勧誘す。貞観八年八月十五日室を出でて沐浴して門弟子に告げて日く、去年教信が云ひ来る日に相当たれり。各に暇乞して室に入って戸を閉づ。夜中金光擢?し、香気普く薫ず。天暁けて門子戸をひらくに、手に定印を結び、端座して寂す。年八十七。当山六世行巡は智行兼備の名僧なり。清和帝御悩の時、勅使二度までもありしかども、久しく当山の雲に臥していまだ緊洛の塵に交らず。容易出山すまじきと申しければ、勅使藤原佐道普天率土の濱王臣にあらずといふ事なし。争か勅命に背くやとあれば、行順松枝に草座を敷いて居す。佐道重ねて枝の下王土につけるに非ずや。その時行巡一丈はかり空に昇りぬ。住道驚いてこの由を奏す。帝叡聞したまひ、いよいよ渇仰し重ねて勅して日く、宮中に入らずといへども願はくは覆護を垂れよ。行巡すなはも法衣一領念珠一顆を献ず。これを帝の枕上に置きたまへは、御悩速かに平愈したまふ。叡感の余り阿閣梨に補せられ三ヶの庄園を寄附したまふ。帝の命によって詔を蒙りながら応ぜず。天子に勝を以て弥勒寺を改め、勅して勝尾寺と号す(尾は山の麓をいふ。上件五師の伝記は『元亨釈書』および本縁起を摘んでここに記す)。 それより講堂魏々として、元慶年中には、帝行幸したまふ事『三代実録』に見えたり。物換り星うつりて寿永のころ、梶原景時一の谷へ発向の時堂舎を兵火す。その後頼朝公将軍となりたまふ時資財を寄附し、当山を再営したまふ。奉行には熊谷・梶原と聞こゆ。二階堂は承元年中黒谷の法然上人土州より掃洛の時、善導大師夢中に告げて日く、浄土の布薩戒を授けん、摂州勝尾寺に会すべし。同年正月十一日夜、善導大師来現して布薩の真戒を授く。今その時の影跡を壁板に遺す。二階堂本尊の左右にあり。建暦元年七月十五日、法然上人自画の船形の宝焔の光中に泥金をもって阿弥陀仏十聖の名号を書したまふ。今なほ存せり。その次のとし建暦二年法然上人黒谷において入寂したまふ。塔を当山二階堂の艮の隅に建つる。その外宝器霊品多し。 知足院(勝尾寺の山坊の中にあり。むかし多田満仲公の臣藤原仲光の子に幸寿九といふあり。この院に習学す。一朝ゆゑ有りて父の厳命を受け、主君美文丸に代はつて命を殞す。手づから一株の桜を樹ゆ。これを呼んで幸寿桜といふ。また一盤陀石あり。これを幸寿石といふ。
天正の禍に遇ふて今亡し。世に伝ふ。幸寿は文殊の化身なりと。雲居和尚かの像を画いて讃して日く)
義は石よりも堅く、容は珠より潔し。主君の命に代はつて菩薩の躯を現ず。旧房今感有り。新画以て図と為す。文殊すなはち幸寿。幸寿すなはち文殊。



勝尾寺(かつおう) 箕面市大字粟生間谷2914-1
応頂山 高野山真言宗 神亀4年(727)、善仲・善算の双子兄弟が草庵を構えた。天平神護元年(765)、光仁天皇の皇子開成が宝亀6年(775)7月13日般若台に大般若経600巻を理経して一寺を建て、彌勒寺を開山。6代座主行巡上人は清和天皇より「勝王寺」の寺号を賜るも、王に尾をあて勝尾寺と号す。永寿の乱で伽藍を焼失したが、建久6年(1195)源頼朝の命により、梶原景時、熊谷直実らが再建。


西国23番札所 勝尾寺案内之絵図に従って境内を廻る。


新家の大鳥居に始まる山越えの参道が山門に至り、門前には宿屋が3軒並んでいる。表門を過ぎると、本堂まで2筋の参道沿いに宿坊が立ち並んでいるが、現在は応頂閣にまとめられている。


山門 慶長8年(1603)豊臣秀頼が再建。平成8年修復。


仁王


狛犬


弁財天 放生池に祀られています。


拝殿・鎮守社・開山堂と今と同じ順に並んでいます。


勝ちダルマ奉納棚 本堂への階段を上がる正面で出迎えてくれます。願いが叶って勝ちダルマを奉納する所です。


三宝荒神神社 開成皇子御感得の日本最初の荒神様。仏・法・僧の三宝の守護神とされるために三宝荒神と呼ぶ。宝塚の清荒神、高野山の立里荒神を加えて日本三荒神と称す。


鎮守社 祭神:諏訪明神 八幡宮 金剛明王


開山堂 本尊:開成皇子 善仲 善算 10月29日には宮内庁から御正辰祭りが勤められる。


多宝塔が本堂の左手に描かれています。


大師堂 開山堂の前、本堂の左手にある。真言宗開祖弘法大師を祀る。廻りに四国88ヶ所霊場より持ち帰られた砂を敷き詰めた御砂踏み場が建っている。


本堂 本尊様:十一面千手観世音菩薩 慶長8年(1603)豊臣秀頼が再建。平成11年修復。


鐘楼 梵鐘は昭和27年4月再鋳。


不動堂 本尊:不動明王座像


一願不動尊


明治中興記念碑 山門からの参道正面にある。


多宝塔 本尊:金剛界大日如来 昭和62年修復。


二階堂 第4第座主 証如(しょうにょ)上人が建立。承元2年(1208年)浄土宗開祖法然上人が3年10ヶ月逗留し、 善導大師の夢のお告げで浄土宗本基の戒を授かる。その時の両祖対面の尊影の壁板が本尊。


現在の境内配置図


本堂から奥の院へ向かう途中にあります。


転輪蔵  一切経堂


薬師堂  本尊:薬師三尊 開成皇子作の50年に1回開帳の秘仏を祀る。俗に泣き薬師と呼び、眼病を治すという。源頼朝再建と伝える当山最古の鎌倉時代の建物。


閻魔堂


源頼朝十三重塔・塚原塚


大仏に覆屋があります。


弥勒菩薩 丈六阿弥陀菩薩坐像 元禄2年鋳造。彌勒寺の本堂のあった場所。


五輪塔 熊谷直実の塔 寿永2年(1183)源平の兵乱で焼失した勝尾寺は源頼朝の命をうけた熊谷直実らによって再建された。直直はのちに仏門に入り、本寺にしばらく止住した法然上人のもとで余生を送った。


文殊堂・納骨堂


六角堂 般若台と称し、開成皇子の写経を納めた所。


開成皇子(かいじょう) 神亀元年(724)〜- 天応元年10月4日(781) 光仁天皇の子。 天平神護元年(765)宮中を出て勝尾山に入って禅居し、善仲・善算の二人の師に出会って出家・受戒。 開成皇子が開基・中興とされる寺院は勝尾寺を始め、大門寺・神峯山寺・本山寺・安岡寺・霊山寺があります。


二階堂から山に入ります。東海道自然歩道の左方(西)、頂上にあります。


宮内庁の管理する陵となっています。 


宝筺印塔  元亨4年(1324)在銘の印塔が積石塚の上に建っています。


山口誓子の句碑  ひぐらしが下界に鳴けり皇子(みこ)のため  勝尾寺境内にあり

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