神南備杜(かみなみのもり) 神内(かうない)村にあり。『類字名所集』に同名大和国。神南備山は丹波国。
『古今』 山さきより神なびのもりまで送りに人々まかりて帰りがてに、別れをしみけるによめる
人やりの道ならなくに大かたはいきうしといひていざ帰りなん 源 実
『新勅撰』 宇治の関白有馬の湯にまかりける道にて、惜秋暮歌よみ侍りけるに
神なびの社のあたりに宿かれば暮れ行く秋もさぞとまるらん 権大納言長家
こすもす児童遊園 高槻市梶原3丁目 管理者:高槻市、土地所有者:春日神社
この辺りから北は、かつての大字地名を「神内」(こうない)といい、古代和歌に詠まれた「神南備の森」がこの地にあり、神南備の音が、年月の経過とともに変化したといわれる。 「かんなび」とは、神の宿る所との意味で、和銅4年(711)設置とされる山陽道の官駅・大原駅があったと推定され、平安時代には、京から西国に下る人々の別離の地であったという。 古今集の歌人、源実は、その前書きで「神なひの森まで送りに・・・別れ惜しみけるに・・・」と記し、別離の様子を「人やりの道ならなくに大方は、行き鬱しと言いていざ帰りなん」(巻第八)と詠んでいる。 南北時代には、幾度となく戦の舞台となったこの一帯も、近世になると、西国街道は山崎通として整備され、梶原には一里塚や旅籠、茶店が設けられて、多くの人が行き交った。 しかし、明治9年(1876)の東海道本線開通に伴う鉄道敷設工事で「森」は姿を消し、今は、上牧町二丁目の春日神社に合祀された神南備神社の名に、当時を偲ぶほかない。 平成3年6月 高槻市教育委員会 |
神が宿るという意味の神南備。そこに語源をもつ神内山が淀川に迫るこの地は、古くから交通の要所でした。 都と大宰府を結ぶ山陽道は、奈良時代には樟葉から神内山めがけて淀川を渡り、現在の五領町付近に置かれた大原駅から西へ向かいました。 のち都が長岡京に移り、山陽道はこの地を通ります。そして平安時代、西国に赴任する都人たちが家族と別れを惜しんだ「神宿る都の果て」・神南備の杜として和歌にも詠まれ、長く記憶されることになったのです。 江戸時代の絵図には、山陽道の後身である西国街道と上牧(かんまき)村の間に、神南備の杜が描かれています。上牧も古代の牧(馬を飼った牧場)にちなく、古い地名です。 杜は明治時代の鉄道建設によって姿を消しましたが、土地区画整備事業に伴う発掘調査では、縄文時代から室町時代にわたるさまざまな遺構・遺物が発見されており、古い歴史を物語っています。 高槻市 |
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