象王山伊勢寺(ぞうおうざんいせでら) 古曾部村にあり。この所は伊勢御の旧跡なり。後世寺となす。禅宗。中興祖永(そえい)和尚
『古今』  亭子院歌合の時よめる
   見る人もなき山里の桜花ほかの散りなんのもぞさかまし   伊勢
本尊正観世音(慈覚大師作。長三尺五寸ばかり)
伊勢御古墳(いせのごのこふん)仏厩の西にあり
什宝(古鏡一面。円鏡にして亘五寸ばかり。古代の体にしてはなはだ奇品なり。古硯一面。伊勢御の所持。立七寸、横三寸。額に雌雄唐獅子珠を含むの形を鐫す。また陶淵明のー彫物あり)硯筥(青貝、唐画の模様あり。古雅なり)伊勢御画影(讃は『古今』の和歌なり。筆書不詳)伊勢寺記一軸(探草元政筆)
寺記に云ふ、
伊勢寺は伊勢の御の旧棲なり。後に寺としこの人を開祖とす。祥忌は毎歳十一月二十一日をもって法莚を修す。そもそも伊勢の御は大織冠九世の孫式部大丞兼木工頭藤原継蔭(つぐかげ)が女なり。父継蔭は伊勢・大和・薩摩・隠岐等の任に補せられ経歴す。まさに伊勢守たりし時かれを誕めり。号けて伊勢と呼ぶ.宇多帝東宮にまします時御息所と成り、絶世の博覧にして和歌を事くし、名歌数々ありて叡感に予かる事あまたたびなり。すなはち『伊勢物語』『伊勢集』あって世に行はる。宇多帝崩じたまふて後ここに隠遁幽棲して終はりなとりたまひしとぞ。それより草室を伊勢寺となづけ星霜累なるに、天正の乱に堂宇・旧記一時に灰燼となる。元和元年祖永和尚中興の力を奮つて松を栽ゑ、竹を槌ゑて伊勢の両堂を造り、古鏡を廟中より得る。時の人みな奇なりとす。ここに高槻の城主永井日向侯大江真清、羅山子をして伊勢が廟碑を撰はしめ、碑碣を廟上に建てて不朽の勝蹟をここにとどめしなり(『伊勢物語』の作、古来より分明ならず。一説、業平の作なりとぞ。また賀茂の馬淵が説には伊勢とは僻言てふ事なり。官女伊勢の御の書きたまひしにはあらずとぞ)。
名におふこの伊勢寺はその人室の上の遊びをなん厭ひ遁れたまひてこの山里に閑居をしめ、つひには身まかりたまひしふるき跡なればにや、ことさらたづね詣で侍りて
しとふぞよ玉の台もいとひきて光をここにかくすこころを  洞上沙門寂本叟水月
写しとどめし絵姿を見侍りて
うつし絵になほもむかしのしのばれていますの人にあふここもする   同



寺(いせ)  高槻市奥天神町1-1-19
金剛山象王窟(こんごうざんしょうおうくつ) 曹洞宗 平安中期の女流歌人、伊勢の晩年の住居跡に建つ。天正年間に高山氏の兵火で焼失。元和から寛永(1615~43)の頃、僧宗永により建立され、 天台宗から曹洞宗に転じる。


山門


本堂  本尊:聖観音菩薩


鐘楼


和田惟政の墓碑(わだこれまさ) 
享保2年、高槻城内で発見された五輪塔をこの下に埋め、 上に墓を建てた。墓碑銘には「前伊州太守月船常心大禅定門」とある。芥川、高槻両城を兼領し、宣教師を保護し、キリスト教の父とまで讃えられた。元亀2年(1571年)、池田氏と戦い白井河原の合戦で戦死。その後、息子惟長は部下の高山右近に滅ぼされ、高槻城を乗っ取られた。


伊勢廟堂(いせびょうどう)  伊勢寺の本堂西側。
伊勢守藤原継陰の女で、宇多天皇の皇后温子に仕え、“伊勢”と呼ばれた。宇多天皇崩御の後、当地に草庵を結ぶ。その没後これを伊勢寺とした。高山右近に寺を焼かれたが、宗永が再興した時、 廟中から古鑑を発掘した。自然石の墓を堂に祀る。


伊勢姫顕彰碑  慶安4年(1651)高槻城主永井直清の建立。
林羅山の撰文595字が刻まれている。
千古佳麗 名日伊勢 仕7條后 侍宇多帝 花晨月夕 風前草際 一心省躬 六義應制 行明因縁 小町異世 將復其衣 無咸我悦


歌碑 見る人もなき山里の桜花 ほかの散なん後ぞさかまし
HOME > 巻五 島上郡
inserted by FC2 system