大織冠鎌足公荒墳(たいしょかんかまたりこうのあれつか)  安城村の西にあり。
方三町ばかり一唯の丘山なり。これを安威山といふ。嶺に石窟あり。墳前に華表あり。土人将軍塚といふ。これより和州阜武峰に改葬す。諺に日く、時の人悲しみ惜しみて棺を奪はんと挑み争ふ。つひに遺骨を捌けて闘争を鎮む。ゆゑに一名胴墓といふ。また改葬の時この塚鳴動す。これによって動の塚ともいふとぞ。塚上に名松あり、笠松といふ。墳の上を覆ひ雨露をふせぐゆゑ名に呼ぶ
『日本紀』日く、
天智天皇八年、庚申、天皇東宮天皇弟を藤原内大臣の家に遣して、大織冠と大臣位とを授けて、よって姓を賜ひ藤原氏とす。これより以後通じて藤原大臣と日ふ。
辛西、藤原内大臣ず(『日本世記』に日く、内大臣春秋五十にして私第にず。また碑に日く、春秋五十有六にしてず云々。
『三代実録』日く、
元慶元年十二月十三日己卯、勅定して毎年荷前の幣を五墓に献る。贈太政大臣藤原氏墓(下略)。
『帝王正統録』日く、
御食子大連(みけこおおむらじ)の子大織冠鎌足、天智天皇の時、中臣を改めて藤原を腸ふ。内大臣正二位藤原鎌足の子不比等は右大臣従二位贈太政大臣藤原淡海公なり云々。
釈 定恵(しゃくのじょうえ)は太織冠の長子なり。初め、孝徳帝の妃あり。妊身にして六月大織冠寵遇厚きによって妃を腸ふて夫人たり。約して日ふ、産める所の児もし男子ならば臣が子とし、女子ならば朕が子とせん。既にして男子を産めり。かるがゆゑに鎌足の子とす。
沙門慧隠(えいん)に投じて出家させ名を定恵と号す。白雉四年遣唐使に随ひ海を捗り初唐の代長安城に到る。高宗の永微四年なり。慧日寺の神泰(しんたい)を師として習学する事惣て十年、調霹元年(唐の代の年号)百済の使に伴って白鳳七年秋九月に帰朝す。定恵唐に在す時大織冠すでにず。定恵弟の承相不比等に問ふて日く、先墳は何れの所ぞ。対へて日く、摂州阿威山なり。定恵これを聞きて先公むかし潜にわれに語りたまふは和州談峯(わたらひのみね・多式峯をいふ)霊勝の名区大唐の五台山に比ぶ。我ここを墓とせば子孫ますます昌えんと宜ふ。我身五台山に在る時、夢を見る。先公告げて宜ふ、吾すでに天に生まる。汝談峯に寺塔を営み仏乗を修せよ。われもまたここに降りて後民を擁護せん。
時に己巳の歳十月十六日の夜二更なり。丞相聞巳つて涕泣して日く、先君の?ずる期その年その月日なり。師の夢徒ならず。宮人を従へて阿威山に寄り遺骸を携へて談山に改め葬りたまひけるとぞ(已上『元亨釈書』。委しくは『大和名所図会』に出だす。


大織冠神社(だいしょくかんじんじゃ) 茨木市西安威2-1
平安中期の頃から、藤原鎌足(土原鎌足)公の墓所は、初め「攝津の安威にあったが、後に大和多武峰(とうのみね)に改葬された」との説がある。江戸時代になって、この塚に鳥居を建て、石碑を造り、お祀りをされた。


鳥居


正殿  祭神:藤原鎌足   

将軍塚古墳石室内に祠を祀っています。

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