雑喉場の市(ざこばのいち)は毎朝遠近の浦々より鱗(いろくず)をここに運びて[制魚](このしろ)鰯の小魚より鯨鯢(をくぢらめくぢら)の大魚、あるは左大沖(さだいちゆう)が都賦(とふ)に書きし類まで群をなして市を立てるなり。そもそもこの市の始は豊太閤御城を営みたまひ列侯甍をつらねたまふ時、山城伏見の民家命を蒙りてこの地へ多く引き移りて万物の賈人(あきびと)交易して繁昌の地となる。今の伏見町これなり。 諸魚も御城の西にて市をなす。その賈詞(うりことば)に安し安しと高声に喚(よば)はる。秀吉公御通駕(ごつうが)の時その売声御耳に入り、安し安しとは矢の巣の売声ならんか。それならば靭(うつぼ)といふべきなりと宜ふ。これによってその町の名を靭と号く。今の本靭町これなり。すべて交易の場を問屋・問丸といふ事は万の市[言貝](そうば)を問ひ合はするにより名とせり。その初めは鮮魚問屋十八軒に極れり。今の雑喉場はむかし鷺島といふ所なり。その後慶安承応の頃は鮮魚問屋、安土町・備後町のほとりにあり。今の上魚屋町なり。ここにおいて市を立てる。これを沖上がりといふ。三月より十月までは温気なれば、上魚屋町へ運送しぬれは鮮(あざらけ)きも鱈鯘(あせ)ぬれば、今の雑喉場へ浮舗(でみせ)を出だしここにて毎朝市を立てるなり。十月より三月までは本肆(もとたな)にて賈ふ。その后延宝の頃より西南捕々の漁人本舗へ運送するを厭ひければ、つひに元舗を今の地へ引き移し、永くここにて鮮魚の市を立てる事となれり。初め、靭町生魚乾魚の問屋のわいだめもなかりしが、後世別れて阿波座へ引き移し今新靭町といふ。むかしは天満天神の御旅所南中の島にあり。毎年六月二十五日例祭に雑唯場より御迎ひに出でて神輿の御船雑喉場へ着岸あり。それより陸地にて小間物店より御旗所へ入りたまふ。後世今の夷島へ御旅所を遺す。


雑喉場魚市場跡(ざこばうおいちばあと) 大阪市西区江之子島1-8
元和のころから発展しはじめた雑喉場(旧称鷺町)の魚市は時勢とともに隆盛の一路を進んだが昭和6年中央卸売市場に吸収された。    市制施行70周年記念 昭和36年3月 大阪市建立
大坂における魚市場の起源は、大坂城築城の天正11年(1583)以前とされるが、此の地は古くから鷺島と称し、対岸野田村の漁人が集まり近海漁獲の雑魚を商う浜であった。慶安・承応年間(1648~55)以後、すでに上魚屋町(現在中央区安土町)にあった生魚問屋が徐々に来住し、元禄年間(1688~1704)には大阪三郷のすべての生魚問屋がここに移って魚市場を形成し、いつしか雑喉場(ざこば)の名を冠する町となった。 以来、雑喉場魚市場は、逐次その規模を広め、面積3,130余坪を擁する西日本最大の生魚市場となり、大阪全市の需要のみならず、地方にも商圏を拡大し、堂島米市場・天満青物市場と並ぶ商都大阪の三大市場の一つとしての発展を遂げたものである。 近代になって、一層集散市場の役割を高め繁栄を誇ったが、ことに明治以降の日本漁業の近代的発展の母体をなす全国的基幹市場として単に流通面に限らず、生産面にも及ぶ水産産業全般の発展に多大の貢献をしてきた。 その後、社会政策としての市場統合の機運の高まりに応じ、昭和6年(1931)11月福島区野田に開設された大阪市中央卸売市場に他の卸売市場とともに入場し、280余年にわたる歴史の幕を閉じたのである。  平成5年(1993)12月


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