社殿直下の御井は、往時四天王の亀の井・清水寺の井・二つ井戸等と共に「浪速七名井」の一つなりと称され、梅雨時期には清水が井戸縁より涌出せし、という。 名井「露ノ井」として当社社名の由来の一つともいわれ、周辺地域を始め、社地前旧池田街道を行き通う人々の貴重な清水であった。 現在では、地下鉄各線や高層ビル群の建設等により、地下水脈が分断され水位が著しく低下している。 |
社殿が西向きでありしをもって、「夕日ノ神明社」とも通称されたこの神社は、平安時代初期・弘仁12年(821)2月、嵯峨天皇の皇子、河原左大臣源融(みなもとのとおる)公が、葦草茂る
中洲(現在の曽根崎1丁目付近)に皇大神宮を祀られたのが始めと伝えられている。 往時はこの地を「大神宮の北の洲」または「神明の鼻」と称し一帯をもって境内地としていた。 附近(梶、西天満3丁目)の旧町名「伊勢町」の起源といわれる。 文二年間(1185〜1189)には「源義経公」より願書と共に寄付物が奉納されたと伝え、後醍醐天皇の御代には勅願所となり度々行幸の栄を受け、江戸期に至りては、 大坂城代及び両町奉行の参詣社となり境内も広大であった。 また旧暦6月1日には、氷室に貯蔵の氷を配り「はやり病の無事息災」を祈願したという。 この神事を一般に「氷の朔日」と称し、近松の「心中刃氷朔日」の題材という。 かつては、西向きの当「夕日ノ神明社」・東向きの「朝日ノ神明社」・南向きの「日中ノ神明社」をもって「大阪三神明」として崇敬された。 しかし、天保5年(1834)7月11日・明治42年の「北の大火」と両度被災炎上し、復興叶わず明治43年露天神社に合祀された。 現在旧社地には「神明社旧跡」の碑が建立され、往時を偲ぶよすがとなっている。 |
明治42年「北の大火」に際し、近在各地に祀られし、4柱の稲荷社も悉く烏有に帰す。 後、各々その復興もままならず、当、露天神社境内地を以て4社を合祀し雄鎮座し給う。 祭神;玉津大神・天信大神・融通大神・磯島大神 |
元禄16年(1703)4月7日、堂島新地天満屋抱えの「お初」と、内本町平野屋手代「徳兵衛」が、当社天神の森にて情死し、近松門左衛門により『曾根崎心中』として劇化され、歴史に残る大成功をおさめた。 以後当社が「お初天神」と通称されるに至る所以である。 |
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