露天神(つゆのてんじん) 曾根崎にあり。世人曾禰崎天神と称す。祭神菅公。例祭九月二十日。
伝へ云ふ、むかし菅公筑紫へ謫遷の御時、福島に船泊したまひ、太融寺仏詣あらんとて、船頭茂太夫案内者となる。この道のほとり露いと深くありければ、 菅公御神詠に、露と散る涙に袖は朽ちにけり都のことを思ひいづれば これより露天神の号あり。
また老松町には老松祠あり。総じてこの辺を、俗に北の新地・堂島新地といふて、宝永五年の開地なり。
常に賑しく、タ暮より両側には軒の懸行灯かがやかしく、紅顔雪肌の輩ゆききして、楼上には琴曲・糸弦の音麗しく、芝居あり、射場あり。西の町端を編笠(あみがさ)茶屋といふて、江鮒(えふな)を製して雀酢(すずめすし)と名づけ名産とす。みなこれ天満(あめみつ)る神の余光なるペし



露天神社(つゆのてんじんじゃ) 大阪市北区曽根崎2-5-4
創建1300年の歴史を持つ古社。
往古この辺りは難波八十島の一つ曾根洲と呼ばれ、八十島祭りに用いた小祠があったという。
後に渡辺党が開発して、渡辺二郎左衛門薫の一族が居住し、その小祠を産土神とした。


拝殿


本殿  祭神:少彦名大神・菅原道真。  


水天宮・金比羅宮
久留米藩大坂蔵屋敷の水天宮と、丸亀藩と高松藩大坂蔵屋敷の金比羅宮が明治維新で合祀される。


御井社・祓戸社 祭神:御井神・瀬織津比盗_・速開都比淘蜷_・気吹戸主大神・速佐須良比淘蜷_
社殿直下の御井は、往時四天王の亀の井・清水寺の井・二つ井戸等と共に「浪速七名井」の一つなりと称され、梅雨時期には清水が井戸縁より涌出せし、という。
  名井「露ノ井」として当社社名の由来の一つともいわれ、周辺地域を始め、社地前旧池田街道を行き通う人々の貴重な清水であった。
現在では、地下鉄各線や高層ビル群の建設等により、地下水脈が分断され水位が著しく低下している。


難波神明社 祭神:天照皇大神・豊受姫大神
社殿が西向きでありしをもって、「夕日ノ神明社」とも通称されたこの神社は、平安時代初期・弘仁12年(821)2月、嵯峨天皇の皇子、河原左大臣源融(みなもとのとおる)公が、葦草茂る 中洲(現在の曽根崎1丁目付近)に皇大神宮を祀られたのが始めと伝えられている。
往時はこの地を「大神宮の北の洲」または「神明の鼻」と称し一帯をもって境内地としていた。
附近(梶、西天満3丁目)の旧町名「伊勢町」の起源といわれる。
文二年間(1185〜1189)には「源義経公」より願書と共に寄付物が奉納されたと伝え、後醍醐天皇の御代には勅願所となり度々行幸の栄を受け、江戸期に至りては、 大坂城代及び両町奉行の参詣社となり境内も広大であった。
また旧暦6月1日には、氷室に貯蔵の氷を配り「はやり病の無事息災」を祈願したという。
この神事を一般に「氷の朔日」と称し、近松の「心中刃氷朔日」の題材という。
かつては、西向きの当「夕日ノ神明社」・東向きの「朝日ノ神明社」・南向きの「日中ノ神明社」をもって「大阪三神明」として崇敬された。
しかし、天保5年(1834)7月11日・明治42年の「北の大火」と両度被災炎上し、復興叶わず明治43年露天神社に合祀された。
現在旧社地には「神明社旧跡」の碑が建立され、往時を偲ぶよすがとなっている。


開運稲荷
明治42年「北の大火」に際し、近在各地に祀られし、4柱の稲荷社も悉く烏有に帰す。
後、各々その復興もままならず、当、露天神社境内地を以て4社を合祀し雄鎮座し給う。
祭神;玉津大神・天信大神・融通大神・磯島大神


お初・徳兵衛碑
元禄16年(1703)4月7日、堂島新地天満屋抱えの「お初」と、内本町平野屋手代「徳兵衛」が、当社天神の森にて情死し、近松門左衛門により『曾根崎心中』として劇化され、歴史に残る大成功をおさめた。
以後当社が「お初天神」と通称されるに至る所以である。

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