兔餓野(とがの)天満北野辺の旧名なり。今、西天満を床の尾といふは兔餓野の訛なるべし。
『日本紀』に云ふ、 仁徳天皇三十八年春正月癸酉(みづのととり)の朔戊寅(つちのえとらのひ)に八田皇女を立てて皇后と為す。秋七月、天皇と星后と高台に居して避暑(すずみたま)ふ時に毎々、兔餓野より鹿の鳴を聞くこと有り。その声蓼亮(さやか)にして悲し。共に憐れとおぼすの情を起こしたまふ。月尽(つごもり)に及びて以て鹿の鳴を聆(き)かず。
ここに天皇、皇后に語りて日く、是夕(こよひ)に当たりて鹿鳴かず。 それ何の由ぞと。明日、猪名の県の佐伯部、苞苴(おほむべ)を献ず。天皇、膳夫(かしはで)に令して以て問はしめて日く、その苞苴は何物ぞ。対へて言ふ、牡鹿なり。これを何処の鹿と問はしむ。日く兔餓野なりと。時に天皇以為(おほ)さく、との苞苴は必ずその鳴きし鹿なりと。 因りて皇后に謂ひて日く、朕比懐抱(このごろものおも)ひつつ有るに鹿の戸を聞きてこれを慰む。今推(おしはか)れば佐伯部の獲れる鹿なり。日夜山野に及ぶらん、すなはち鳴きし鹿に当たる。 その人、朕が愛(よ)みすると知らず以て適逢?獲たりと雖も、猶を巳むことを得ずして恨しきこと有り。ゆゑに佐伯部をば皇居に近けむことを欲せじと。すなはち有司に令して、安芸の渟田(ぬた)に移郷(つかは)す。これ今の渟田の佐伯部の祖なり。
これは仁徳天皇八田臭后と高台に昇りたまひ、秋の夜残る暑を避けて鹿の声を愛して楽しみたまふに、猪名県(ゐなのあがた)の佐伯部(さいきべ)といふ者、日夜狩して猪名野(ゐなの)より大江岸のむかひなる兔餓野に来り、一つの鹿を射殺し、帝に奉る。その夜より曾て鹿鳴かざりければ、帝愛したまひし鳴鹿を獲しと見えたり。これによって帝大いに恨み思しめすなれば、有司(ぶぎょう)うけたまはりて、佐伯部を安芸国渟田に左遷をおはせつけられし事となり。今の天満北野のほとりに治定(じじょう)せり。
同巻云ふ「俗の云ふ、昔一人有りて、兔餓に往きて、野中にて宿れり。時に二の鹿傍に臥す。鶏鳴(あかつき)に及ばむとして牡鹿、牝鹿に謂ひて日く、吾れ今夜夢みらく、白霜多く降りて吾が身を覆ふと。これ祥(さが)ならん。牝鹿答へて日く、汝の出で行く、必ず人の為に射られて死なん。すなはち白塩を以てその身に塗られんこと、霜の素(しろ)い応(こたえ)なりと。時に宿人の心の裏に異(あやし)ぶ。昧爽(あけぼの)に及ばざるに、猟人有りて、牡鹿を射て殺しつ。これを以て時の人の諺に日く、鳴く牡鹿も相夢(いめあはせ)のままにこと」。
これは旅人の牝牡の鹿のものがたりを傍に在りて夢に見たる故事なり。兔餓野の一名を闘鵜野(つげの)といふ。兔餓(とが)・闘鶏(つげ)五音相通なり。その証歌多し。しかるに、『大木集』に左近中将公街卿の歌あり、
  みなと川うきわの床にこよひこそ秋をつげ野の鹿もなくなれ
この歌はむかしの杜撰にて、これより心得たがへるもの多し。宗祇の『方角抄』、並河の『摂津志』『摂陽軍談』『国花万葉』等なり。しかしながら大中彦の闘鶏に猟したまひ、山の上より野中をのぞみて氷室を見出だしたまふは、兵庫の北にてもあらんや。氷室は五百八十所もありて、難波と兵膵との事か。これは治定ならず。闘鶏野は兔餓野と一所二名なる証歌多し。その一、二をここに揚げる。兵庫の夢野も後世杜摂して号くるなり。 
  『夫木』 押し照るやみつの堀江に船とめてつげ野の鹿の声を聞くかな    浄忍法師
   同   月かげをおく霜かとや思ふらんつげのの鹿の声ぞうらむる      源師光
   同   夜を残すねぎめに聞くぞ哀れなる夢野の鹿もかくや鳴くらん     西行法師
   同   あはせてやいむとわぶらんぬば玉の夢野の鹿のもろ声になく    長明
『摂津国風土記』云ふ、 雄伴(をとも)の郡、夢野有り。父老(おきな)の相伝に云ふ、昔は刀我野(とがの)に牡鹿有りき。この野に居て、その妾(をむなめ)の牝鹿は淡路の国の野島に居て、彼の牝鹿屡(しばしば)野島に往きて妾と相愛しみすること比(たぐひ)無し。既にして牡鹿、嫡(むかひか)の所に来て宿る。明くる旦(あした)、牡鹿その嫡に語りて云く、今夜夢みらく、吾が背に零(ふ)りおへりと見き。またひとすくき草生ひたりと見き。この夢は何んの祥(さが)ならんと。その嫡夫の復妾に向ひ往かんことを悪む。すなはち詐りてこれを相して日く、背の上lこ草生ふるは、矢、背の上に射んの祥なり。 また雪零るは白き塩、完(しし)に塗るの祥なり。汝淡路の野島に渡らば必ず船人に遇ひて、射られて海中に死なん。謹んで複往くこと勿れと。その牡鹿、感恋に勝へず、復野島に渡る。海中にして行く船に遇逢(たまたまあ)ひ、つひに為に射死す。ゆゑにこの野を名づけて夢野と日ふと云々。




兔餓野(とがの)  大阪市北区兎我野町
奈良初期から見える古い地名で、現在の兎我野町という町名は明治33年4月の町名改正により新設されたもの。
『日本書紀』神功皇后摂政元年に、忍熊王子らが菟我野で狩猟と出ており、 『古事記』仲哀帝条には斗賀野、『日本書紀』仁徳天皇38年条に、天皇と皇后が高台に上って避暑し、毎夜菟我野の鹿の声を聞いたとある。
同天皇は鹿が鳴かなくなった翌日、献上されたものを聞くと鹿の肉だといわれて残念に思ったともある。
『続日本紀』では、今日の神戸市兵庫区夢野辺りだとしている。



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