天満菜蔬市(てんまあをものいち) 市場は天神橋北爪上手より竜田町まで浜側通三町ばかりの間なり。
天神橋より下手は市場にあらず。市の側といふなり。世人、天神橋より下手を西市場、上手を東市場といふは謬なり。
東西の市場、天神橋より上手竜田町までの中lこての通称なり。問屋四十軒、中買百五十軒といふ。
この市場は、日々朝毎に多く人集りて菜蔬(さいそ)を賈(あきな)ふ。
そもそも、春のあした春日野の若菜より売り初め、鶯菜(うぐいすな)・磯菜(いそな)・嫁菜(よめな)・杉菜(すぎな)・芥子若葉(けしのわかば)・蕗姑根(ふきのしうとめね)・白草(しろくさ)・早蕨(さわらび)・天花菜(つくづくし)・独活芽(うどめ)・浜防風・枸杞(くこ)・五加木(うこぎ)・三葉・芹・菠薐(ほうれんそう)菜は木津・難波の名産。天王寺蕪・椋橋萊菔(くちはしだいこん)・海老江冬瓜(えびえかおうり)・勝間浦の海藻・住吉の神馬草(じんばそう)・姫松の麦蕈(しょうろう)・浜村瓠蓄(はまむらかんぴょう)は夜小歌節にて批(む)くとかや。
伏見孟宗笋(もうそうだけのこ)・壬生菜(みぶな)・白慈姑(しろくわい)・白芋(しろいも)は京より下る。字陀(うだ)の薯菟(しよよ)・河内蓮根(かはちれんこん)・昆陽池の蒪(ぬなは)。
茸市(たけいち)・粟市(くりいち)は、九月重陽の前二、三夜は、松明挑灯を多く照らして夜の市めざましけれ。また時雨月上旬には、紀の海士・有田の両郡より蜜柑数百万積み来り、師走二十四日まで大市あり。
元この市場は往古京橋甫爪において年久しくありLが、慶安の頃、その所官家の御用地になりて京橋片原町へ引き移す。商人の往来に煩(わづらひ)ありとて、替地を免許ありで、今の所へ引き移りて、日々店々飾り、ゆききも労がはしきほど市人立ちふたがり、かふ人あり、沽(うる)人あり、にぎははしき事は常にたゆむ事なし。
清少納言の『枕草紙』には、市は辰の市・椿市・おふさの市・しかまの市・あすかのいちまでほ書きたまひねれども、この市を書き遺されし事は大いなる憾(うらみ)ならずや



天満青物市場跡(てんまあおものいちばあと)  大阪市北区天満3 南天満公園内
承応2年(1653)片原町からこの地に移った天満青物市場は、諸国に類をみない繁栄を続けた。
昭和に至り変遷があったが昭和20年戦災で廃絶した。   昭和61年3月  大阪市建立



大阪の青物市場は明応5年(1496)石山本願寺の辺りに設けられ、信者に野菜や雑貨を供したのが始まり。
天正・慶長の頃から今の京橋南に移り、元和2年(1616)淀川右岸の淀屋屋敷跡、慶安4年(1651)に片原町と転じ、そこが御用地になったため、この地に移転した。
やがて難波村市場や木津村市場が出来ると、天満市場は衰弱し、昭和6年中央市場へ吸収され、空襲で消滅した。
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