竹田近江が機捩戯場(たけだあふみがからくりしばゐ) は諸国までも聞こえてその名高し。
その初めを原ぬるに、阿波国の産にして江戸に住みしが常に浅草の観音を詣してその立願に、多くの人を育み養ふ稼穡を教へたまへと祷る。
そのるさに児童寄り集まりて砂遊びをしてゐるを見て砂時計の工夫をめぐらし、これ霊験なりとて京都において唐操偶人を製造し、万治元年十二月朔日雲井まで調進し奉りけれは、初めて竹田出雲と受領を拝せり。今より百四十年以前なるペし。
その後、寛文二年大坂において初めて機捩戯場を願ひて興行し、享保十一年五月五日竹田近江と受領を改め、同十四年壬九月十九日近江は没しければその倅三四郎へ同年十一月京都にて受領を拝し、寛保二年九月二日、二代の近江清英死にければすなは弟平助譲り受け、同三年京都にて竹田近江と成る。今において相続す。
機捩の前芸には子供を出だして戯狂言を姶む。この芝居世に高く、東西辺鄙の旅人も竹田塘操を見わは大坂へ来りし験なしとぞ聞こえし。





竹田の芝居
最初江戸にいた竹田近江は既に万治元年(1658)にカラクリ人形を作り宮廷に献上して出雲掾を受領し、翌年近江掾を再受領し、カラクリ芝居の興行を思いたち、 寛文2年(1662)に道頓堀、太左衛門橋南詰東の浜側でからくり芝居の興行を行っている。
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