桂木山大融寺(けいぼくさんたいゆうじ) 北野にあり。古義真言宗。高野四善庵に属す。
本尊千手観音 春日の作、長二尺七寸。脇士、地蔵・毘沙門を安ず。共に弘法大師のー作。外陣に賓頭虞尊者(びんずる)の像を置く。
護摩堂 不動尊は智證大師作。座像二尺六寸。また弘法大師自作の影を安ず。月毎二十一日には遠近ここに詣して群をなす。
愛染堂 愛染明王は長丈六。肥州鍋島侯より寄附なり。
釈迦堂 釈尊・文殊・普賢・十六羅漢を安ず。
巡礼観音堂 西国三十三所の観音を安置す。 
鎮守 弁天・稲荷・庚申・船玉等め祠あり。また妙義権現祠あり。
弁天池 本堂の東にあり。
額 観世音と書す。南岳悦山筆。
それ当寺は難波の古寺にして、開基は弘法大師なり。弘仁年中大師ここに来たる時、松柏深く生ひ茂り、木下闇の暗きに、霊光赫々として異香芳しき霊樹あり。すなはち大師これを伐って自ら地蔵・毘沙門の二躯を刻み、仏院を草創したまふ。その頃嵯峨天皇これを叡感ありて、大悲の尊容を寄附したまふ。すなはちこれを本尊とし、同帝の皇子源融公六条河原院を建てて、陸奥千質浦の塩竃を摸し、難波の御津の浦より日毎に潮を汲ませ御遊ある。その頃ここに遊歴したまひて、仁海上人に遺命し仏院を建営し、かの霊樹の地なるゆゑ、桂木山と号し、融公の諱を以て大融寺と称す。 またその頃弘法大師真言の霊場としたまふ。星移り物換りて、逆乱の為に講堂荒廃して、大門の跡はこれより西北三町にあり。今字となる。その外宝塔、楼閣の蹟はみな田園の字にあり。浴室の跡は今風呂小路とて耕作の地なり。後世快済(かいせい)上人来って今のごとく再興し、むかしにかへりて春は堂前の藤波麗しく咲き乱れて、詣人の眺となりて賑しき霊刹なり。この地名を床の尾といふほ免餓野の訛なるべし。
什宝 ○世尊蓮糸の袈裟○嵯峨帝御守○弘法大師の作りたまふ弥陀三尊○栢柯(かやのから)の三尊仏
    ○中将姫髪を以て縫ひたまふ四天玉○後醍醐帝建武三年二月期日当国吹田荘を寺産として賜はる綸旨あり。
また尊氏将軍寄附状あり。その女に日く  
 当寺は河原左大臣融公の草創、一天不二の霊場なり。心願有るに依りて、摂州倉橋の庄一分を寄附す。
 天下太平を祈りならびに二世安全の顧ひを遂げんと欲す。依りて寄附の状件のごとし。  
      建武元年八月朔日                                     尊氏在判     
              太融寺江


太融寺(たいゆうじ) 大阪市北区太融寺町3-7
高野山真言宗・準別格本山。
嵯峨源氏の祖、左大臣源融(みなもとのとおる)ゆかりの寺。弘仁12年(821年)に弘法大師が嵯峨天皇の勅願により創建。


本堂 ご本尊の千手観世音菩薩は嵯峨天皇の念持仏という。脇仏 地蔵菩薩・毘沙門天
元和元年(1615)5月、大阪城落城のとき兵火で全焼し、元禄年間に復興。
昭和20年(1945)6月戦災で堂塔伽藍一切が灰燼に帰す。昭和35年(1960)10月23日再建。
新西国33所霊地第2番・近畿36不動尊霊場第6番・おおさか13佛霊場第8番・摂津国88ヶ所霊場第6番
ぼけ封じ観音霊場第7番・なにわ七幸(弘法大師)・大坂33所観音めぐり第1番


大師堂 弘法大師


宝塔  大日如来


護摩堂 不動明王

一願堂 一願不動尊 昭和26年に再刻。


鐘楼


白竜明神


淀の方墓
大阪城落城で自刃した淀殿の遺骨が、明治10年(1877)11月に城東練兵場造成に当り移祀され、九輪の塔を建て境内西北隅に祀る。
戦火により現在は六輪塔となっている。


芭蕉句碑
しら菊の目に立てて見る塵もなし

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