僧日羅塚(そうにちらのつか) 天満同心町にあり。今詳らかならず。
『日本紀』云ふ「敏達天皇十三年、贄子大連・新手子連に詔して日羅を小郡の西畔の丘前に収め非らしむ」云々。
小郡とは西成郡をいふなり。









日羅公之碑(にちらこうのひ)  大阪市北区天満橋2  河川敷
碑銘 公爵一條實孝閣下之書
日羅公は肥後国芦北国造の子で、敏達帝の御代、久しく百済国に住んで政治の要路にあり、非凡の知勇を内外に知られていた。 天皇は公の献策を用いて国勢の伸張をはかろうとせられ、公を召して帰国せしめられた。 公は御諮問に応えて民生外交に関し、種々献策したが、これを百済に不利として彼地より同伴してきたもののために暗殺せられることとなった。 詔により一旦難波の小郡西畔丘前に収葬せられたが、此地はその初葬の地であるといわれる。 崎に顕彰に当たられた日羅公薫続記念会が、更に戦災による荒廃を修復せられたことは、時節柄まことに当を得たことと思い、ここに事蹟を記してその記念とする。
                            昭和3年6月  大阪市長 中井 光次 書

大正時代の中ごろまでは同心1丁目に「日羅塚」と称する土饅頭(まんじゅう)があり、埋葬跡と伝えられたが整地のため取り壊された。
昭和13年(1938)、吉房末吉ら日羅を慕う有志らがこの碑を建て、近年現在地に移っている。

HOME > 巻之四 大坂
inserted by FC2 system