新町傾城廓(しんまちけいせいのくえるわ) は新町橋の西方四町をいふなり。
往昔天正年中より民家建て続き海舶の要津となれは、その着船の所々に花魁の家あり。その頃はまだ野原なりしを、寛永年中この地に初めて傾城廓官家より御許しあれは、諸方の花魁を一ツ所にあつめ田圃を闢きて新たに町とせしゆゑ、世の人新町とよんで柳陌の惣名となれり。
その砌に木村亦次郎といふ伏見浪人の願によって、官より花巷の長をつとめさせらる。この者瓢箪の御馬印を拝領して常に玄関に錺りしゆゑ、通り条を瓢箪町といひ居宅の町を亦次郎と呼ぶ。
また、佐渡島与三兵衛といふ者上博労に在って、その頃今の地に移り開発の由緑にこよって佐波島町とよび、この西を越後町といふは佐渡越後と国双のゆゑなり。吉原町は北天満吉原よりここに移すゆゑ旧名を呼んで町の名とす。
佐渡屋町は船場高麗橋条の佐渡屋何某といふ者、この廓を開きし打余りの地をゆゑ有つて拝領し一町一家敷とし住ふけるより佐渡屋町といふ。
その次を九軒町といふ。初め玉造九軒茶屋を引き移して名とせり。今はこの地に六軒、新堀町に三軒、佐渡島町に三軒ばかり見ゆるなり。
それこの津は海舶輻湊の地なればむかしの江口・神崎もここに在りて長柄傘に高足駄、紋日の道中、身請の門出、一笑千金の花の曙より二千里の月のゆふべも蘭麝のかをり濃かにして、歌舞の声糸竹の音洋々たり。
むかしこの廓に総角・夕霧・吾妻・松山などいふ花美全盛の太夫ありとて世に名高し。
傾城傾国は前漢の李延年が伝より出でて、国色の麗人を一城の尊卑こころを鮪け一国の人民眼を送りてその容儀を賞ずるのみなり。強ちに城を幣り国を摧す名にはあらず。
この廓初めは大坂三郷の西端にして田園に続きしに、後世次第に市中蔓りて今難波津の真中となりぬ。かるがゆゑに略して中ともいふ。







新町九軒桜堤の跡(しんまちきゅうけんさくらつづみのあと) 大阪市西区新町1-15 新町北公園
近松門左衛門の「夕霧阿波鳴渡」で知られた新町九軒の吉田屋はこの付近にあり、
西鶴もそのにぎわいを浮世草子に描いている有名な桜堤の夜桜は人々の心をなごませた。
昭和55年建碑 大阪市 


新町(しんまち) 江戸時代、江戸の吉原、京の島原とならぶ大坂唯一の公認遊所。
元和、寛永の頃(1615〜44)、市中に散在した遊所をここへ集め、新しく町を開いたのでその名となる。
遊所には柳家桜を植えて飾り、遊女には大夫・天神・鹿子位・端女郎の区別があり、
置屋にも揚屋・天神茶屋・鹿子位茶屋・店付茶屋の別があった。
寛文年間(1661〜1704)の夕霧・吾妻大夫は近松門左衛門の「夕霧名残正月」や「寿の門松」に名を留めている。



千代だまされて句碑    まされて来て誠なりはつ桜  加州千代句

文政2年(1819)頃、花の街に花を咲かせようと、桜を植え、その桜並木の両側に句碑を置くことになり、
東側に、「春の夜は桜に明けてしまひけり  翁」の碑を建て、西側にこの千代女の句碑を置いた。
九軒は空襲で焼失し、句碑は上部が欠けてしまった。



夕霧墓(ゆうぎりはか) 浄国寺墓地
夕霧太夫は西鶴の好色一代男や近松の曲輪文章など浄瑠璃・歌舞伎にも見える名妓であるが延宝6年(1678)正月に27才の若狭で歿した。
墓碑正面には「花岳芳春信女」と刻み右面に再建の由が誌されている。
左面には「此塚は柳なくてもあはれ也」と鬼貫の句が刻まれ、その下に夕霧墓とあり、裏面には延宝6年亥午年正月6日俗名あふぎや夕きりとある。        平成17年正月6日

延宝6年(1678)没後に建てた角型の墓が、石を欠いて飲めば病が治ると噂されて破損したので、文久3年(1863)丸型に再建した。
鬼貫の句は元禄元年(1688)に墓参して詠んだもの。
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