大阪(おほさか) といふ號(な)、上古聞えす。按するに大江坂(おほえのさか)の略訓なり。
大江は難波江の一名にして、皇子を大江伊耶本和気命(おほえのいさほわけのみこと)と申す。受禅の後は履中天皇と称す。此時大江の號初て聞ゆ。今時金城より南一堆の丘山にして、大江の岸の古詠も多く、谷町・坂町の名を呼ぶ。坂町は後世道頓堀の南へ替地あり。明応の頃、蓮如上人の文章に、摂州東生郡生玉庄内の大坂とあれば、其頃は封境廣きにはあらざるべし。今は大阪の生玉と称して昔に反す。
上古は道臣命(みちのおみのみこと)當国の造(みやつこ)にして、景行帝(けいこうてい)の御字には大伴武日連(おうともたけひのむらじ)、允恭骨(いんぎょうてい)の御時は大伴室屋大連(おほともむろやおほむらじ)社稷(しゃしょく)を輔翼し、叛賊星川皇子を平げ、顯宗帝(けんそうてい)を大嗣(あまつひつぎ)に即け奉る。国人悦ぶ事限なし。大宝年中には大伴安麿、養老には大伴牛養、和銅には大伴旅人・大伴山守、天年には大伴犬養・大伴家持等次第に領して、自然と大伴の名蔓(はびこ)りて、大伴の御津の浜、或は大伴の御津の泊とも詠ず。上古此国に大伴の郡名あり。和州法隆寺資財牒に出でたり。順の「和名抄」に見えざる事は、淳和帝の御諱を大伴と申し奉りしより停められ、缺郡の名出でたり、大伴氏を廃せられて後世伴氏と呼ぶ。其領主の古蹟は、大江岸の国府町なり。大江岸は、今の八軒の浜を指していふなり。座摩の御旅所に神石あるゆゑに、石町と称するも可ならん哉。 天正中、顕如上人石山御堂退去の後、豊太閤御城を営み、萬国の獣の列候藩屏としし千門を開く、交易の賈人四衝(あきうどしく)に満ちて繁華となる。金城の號あるは、黄金水涌出不易を祝しけるにや。国初より四海の浪穏にして、枝をならさぬ御代なれば、諸国の米穀石及び和漢の雑貨(ざつくわ)こゝに着船して、 朝の市・暮の市、街に喧しく、實に日本都会の要津(えうしん)たれば、縦横四衢(しく)の賑しき事は海内に冠たり。 「仁徳紀」に御製あり。『阿佐豆磨能(あさづまの) 卜部兼永釋に云ふ、朝妻は難波の中の地名なり。避介能(ひがの)同上。烏瑳介(をさか)小坂なり。』これらも大坂の因(ちなみ)ありて縁(もと)とするも可ならんや。
「皇明實記」巻之二十一に云く、
丁酉萬暦二十五年二月。復議東征。時封事已壊。而楊方亨詭報。去年六月十五日。従釜山渡海。 九月二日。干大坂受封。即以四日囘和泉州然倭責朝鮮王子不往謝。留釜山如故。下略
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