難波人(なにはびと) 「日本紀」に曰く、仁徳天皇御歌、「那珥波譬苫(なにはびと)難波人なり。
須儒赴涅(すずふね)鈴船なり。苫羅斎(とらせ)避なり。於朋瀰涅(おほみふね)大御舟。苫禮(とれ)取なり。
 萬葉 難波人蘆火たくやのすしたれど巳が妻こそとこめづらしき 柿本人丸
 続千載 さぞとだにほのめかさばや難波人折りたくこやの蘆のしのびに 為氏
 続拾遺 浦風やなほ寒からじなには人蘆火たくやに衣うつなり 権僧正實祐
 続後拾 難波人御祓すらしも夏川のあしの一よに秋をへだてゝ 等持院贈左大臣
此津は萬国廻船の水門なれば、諸州の人物貴となく、賤となく善となく兇となく入交るの地なり。
いにしへはいざしらず、近き頃忠孝の者市中にありて、粗(ほぼ)其名聞ゆ。元禄七年の頃には、北新町鉄屋が家に土売七兵衛、又本町三丁目に平兵衛・傳兵衛のおとどひの者、元文四年には堀江橘町にいち(十六歳)まき(十四歳)とく(八歳)初五郎(六歳)長太郎(養子年不知)。此父太郎兵衛は、羽州秋田通船の居船頭なり。犯罪の事ありて既に刑に行はるべきに定りしを、五人の孝子父の命に代らんと願い出でて、遂に父の命を助く、之を元文の五孝子と賞す。
尚近きとし天明五年に、天満岩井町籠細工熊次郎(十四歳)弟馬之介(十歳)、南問屋町に燈心売りの娘かう(十五歳)養母に至孝なり。天満一丁目播摩屋源兵衛(三十歳)其妹梅(二十九歳)同弟大吉(二十六歳)同妹とめ(二十四歳)同弟源蔵(二十二歳)同妹かね(二十歳)兄弟六人の者、孝貞にして母を撫育し、家睦敷業を出精する事他に異なり、倶に寛政二年の事なり。
同四年には大満南木幡町常盤屋治右衛門が娘みせ(九歳)其母疳症(かんしゃう)にして刃傷に及ぶを見付けて取り止め命を助け、生涯孝心怠らず。同年に天満北森町山本屋儀兵衛が下人長兵衛は、主人へ忠心を盡し、同五年に西高津新地九町目喜八(二十二歳)吉松(十八歳)のおとどひは、母に事る事君の如し。同年に酒邊町の源兵衛(二十三歳)は父母に孝を盡す事際なし。
又同年に立半町の亀市(十六歳)みよ(十一歳)のおとどひもみな親々を愛して至孝なり。寛政七年の春、幸町五丁目勘平が女かね(十五歳)業に木綿絞をして、十一歳の時より昼夜寝ねず出精し、孝養疎ならず。
平野町爐屋が下人善太郎(四十歳)三代の主人に忠勤して己が母に至孝なり、之も同年の春かとよ。
又同時御池通伊勢屋佐兵衛は、主家を相続して忠貞厳なり。寛政八年の春には、南堀江鉄屋が家に住みしゆき女(二十二歳)母へ孝を盡し、稚き妹を育てて業に怠らざるとや。上件の人物みな官家の高聞に達し、臺命(たいめい)あつて御褒美として悉く銀若干を賜ふ、近き世の事なれば委しくしる人多し、故に其要を撮(つま)んでここに記す。子曰、天地の性は人を貴しとす。人の行を孝より大なるはなし。
明王徳を敷きて下を化する時は、みな孝有りてこれに従ふ、仁徳聖帝に遺風千載の後までも輝きて、これらを難波人とそいふならし。
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