水咫衝石(みをつくし) 一之洲にあり。今いふ水尾木なるペし。この修理科、廻船問屋・船持仲間の課役たり。
  『万薬』   みをつくし心尽くしておもふかもこのまももとな夢にしみゆる     読人しらず
  『拾遺』   佗び由れば今はた同じなにはなるみを尽くしてもあはむとぞ思ふ  元良親王
  『後撰』   難波がた何にもあらずみを尽くしふかきこころのしるしばかりぞ   大江王淵朝臣女
  家 集    名所の中に水尾尽の御屏風に    
         吹く風にまかせることも澪標まつとしらずやさしてくるらむ       壬生忠見
  『土佐日記』  二月六日みをつくしのもとより出でて難波の浮をきて河尻に入る。(中略)
   七日けふは川尻にふねいりたちて漕ぎ登るに、河の水ひてなやみわづらふ。(下略)
  『類聚国史』云く「難波江始めて澪標を建つ」(澪は水の深さを云ふ。標は卯の木なり。
  『延喜式』云く「およそ難波の津頭海中には澪標を立て、若し旧標朽ち折れたる有れば、捜求めて抜き去る」云々。





澪標(みおつくし) 澪は、舟の通行に適する深い水路のことで、その場所を示した標識のこと。
『土佐日記』にも記され、難波の名物となり、身を尽くすと掛詞になるところから歌にも謡われた。
明治27年(1894)4月、「大阪ノ商都タル根本ハ港湾ニアリ。船舶に基キ殷賑ヲ極ム」という大義名分から、
大阪市の市章に採用された。


澪標住吉神社(みおつくしすみよしじんじゃ) 大阪市此花区伝法3-1-6
社名は、浪速津の川口に建てられた澪標に因る。
浪華八十島の1つで、東西に長く白砂の浜にうっそうたる緑の樹林がある島であった。
延暦23年(804)遣唐使の一行が途次この島の景勝に感じ、前途の安泰を祈願するため島民に呼びかけ、島の一角に住吉四柱神を奉祀したのが起こりという。
中世には京へは大物の浦より神崎川を遡行したため、寂れたが、秀吉の大坂城築城では伝法口として湾内随一の要津となり、また、水質にも恵まれていたため、灘五郷に先駆して酒造の本場となり、徳川時代には樽廻船を創始して販路は江戸・東北・北海道に及んだ。
航海の守護神として奉幣献饌も盛んであった。



社頭にある澪標


拝殿


本殿 祭神:住吉大神・天照大神・八幡大神・神日本磐余彦命
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