河口(かはぐち) 河海の喉口にして両所あり。一は安治川といふ。大川肪・土佐堀・蜆川等の下流なり。一は木津川といふ。
長堀・道頓堀、および西の方諸流ここに帰会す。諸国の廻船ここにつどひて碇石を卸し、これより行李船三枚船を以て五穀雑貨を問屋へ運送す。
千石二千石の大船水上に町に路を作りたるごとく、桅竿は北斗を指さし上下は欄紋をもって自在し、舳首には船の名・家々の紋付けてその国々をしらせ、風威の順不順・潮時の満干を考へて出帆あり着船あり、両河口共に官家の監船所ありて海舶の出入を改めらる。
そもそも初春の乗初より晩船の甲乙あるは新艘の船おろしの祝ひまでもみな両河口の賑ひなり。その連船の中を尖頭舟漕ぎつれ漕ぎつれ酒肴麺類野菜の物までも売りありく、その声喧し。
また、その船に遊女・土妓を乗せて三弦をかしく弾かせ何やら声を発て喚くあり。これを土俗伽遺船といふ。むかしの川末の江口なり。
難波津大湊となれるはこの河口の泊船の連なるにてしらるべし。







川口(かわぐち) 木津川・安治川両流の分岐点に位置したことから川口と呼ばれる。
元和6年(1620)に幕府の川口御舟手とともに、徳川水軍の東西二大鎮守府になっていた。


大坂船手会所跡(おおさかふなてかいしょあと) 大阪市西区川口1-3
大坂船手は、大阪湾から木津川・淀川への船舶の出入りを管理・掌握することと、大阪湾に停泊している船舶を掌握することを職務とする江戸幕府の役職で、元和6年(1620)に設立された。その中心施設がこの地におかれた船手会所である。
配下の施設として、船の出入りの管理を実際に行う船番所が、会所の北側と春日出、三軒家の三箇所に置かれた。また、船蔵が会所の脇と四貫島にあった。
18世紀代には船手頭か小豆島などの代官を兼ねることもあり、大坂における幕府の重要な役職のひとつであった。
元冶元年(1864)に廃された。          大阪市教育委員会

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