舞伎楽戸(かぶきしばい) は座長の頃より名古屋山三・お国などいふ者京師北野・祇園・林・五条河原にて始めて戯場興行し、その後、彼等が弟子、村山又八・松木名左街門・京屋万太夫・大坂太左街門・塩屋九郎次・同九郎右衛門など伏見の城山指月亭、豊太閤の御前にて狂言尽を初めけり。
その後、寛永年中京より段介といふ者大坂へ下り、下難波領の傾城に都をどりを教へて仮芝居を初めて立てけり。これ難波歌舞伎の始なり。
それより女芸を禁じたまへは、塩屋九郎右街門・同九左街門・大和屋甚兵衛・河内屋与八郎・松本名左街門・大坂太左街門等京都より大坂へ下り芝居興行す。その頃はみな浜芝居なり。次第に繁昌して人数も増し、若衆・?童五十人はかりづつ入替へ入替へをどらせたり。
その頃は名代・座本の極りもなく勝手にこれをなす。しかるに慶安五年に至りて名代も改まりけるとぞ聞こえし。
今はもかしに変はりて、衣装も美をつくし鬘もさまざまに作り、道具立の見事なる事はいにしへに十倍せり。室の梅咲き初る霜月の頃は、夜の顔見世とて万灯をてらし、笹瀬が幕、北浜の手打、櫓太鼓の音に楼船を早めての芝居行、色長は大振袖にて楽戸入、生・旦・浄・渾・丑等はみな顔の色に顕し、角の芝居・中の戯場とて互に大入の札を出だし、角丸は切雑扮とて果てるあり、始まるあり、いろは茶屋の暖簾は今は見えねど、この浜側はみなこの潤にして春秋の賑ひ、遠近大坂へ至れば両三日は芝居にて日を経るなるペし。








大坂松竹座(おおさかしょうちくざ) 大阪市中央区道頓堀1-9-19
大正12年(1923)日本初の洋式劇場として誕生。大林組の設計技師・木村得三郎が設計。
平成9年(1997)に外観を残して新築。

寛永2年(1625)道ト(どうぼく)が南船場にあった芝居小屋を道頓堀に移し、慶安5年(1652)には中座、角座、浪花座がオープンし、歌舞伎がブームとなり、 浪花五座といわれた弁天座・朝日座・角座・中座・竹本座(浪花座)は名実ともに演劇界を代表する劇場となっていた。



角の芝居復元模型 (大阪歴史博物館)
天保8年(1838)1月、大坂では顔見世よりも重視された二の替わり興業の情景を再現。
大坂で生まれた名作「仮名手本忠臣蔵」の通し狂言がかけられ、舞台では五段目を上演中である。 表には、劇場の象徴である櫓、演目を人形で表現する人形看板などの独特の装飾が飾られる。 浜側には、観客の案内・食事。休憩などの世話をした芝居茶屋がならぶ。
劇場の建築や装飾等は、大坂の劇場を描いた『戯場楽屋図会』などの文献や、旧金毘羅大芝居(香川県琴平町)など現存の芝居小屋を参考に復元した。

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