医生見宜堂(いせいけんぎどう) 聚楽町にあり。寛文の頃の名医にそて、立庵(りゆうあん)と号し、黄檗山隠元和尚を友とし、その頃所司代板倉周防守殿大坂兼帯なれば、その挙によって、後水尾帝の天脈(てんみゃく)を候(うかが)ふ。
境地に見宜堂あり。額は隠元書す。堂前の石灯炉は雲竜の模形(もぎょう)ありて唐物なり。
家に城代阿部備中侯・板倉周防侯の書翰多し。今において浪華の名医にして、家方の錦袋子(きんたいし)世に名高し。



古林見宣堂宅跡(ふるばやしけんぎどうたくあと) 大阪市中央区粉川町
古林見宣は浪華を代表する寛文年間(1661〜73)の名医。
墓所は禅林寺

狸坂大明神

狸坂大明神   大阪市中央区粉川町 南大江公園 

 古林見宜翁の古宅、懸鐘街の南、善菴條(ぜんなんすじ)に在り。翁の事蹟、詳らかに皇國名醫傳に見ゆ。世人今に至るまで相傳えて言えること有り。曰く、寒夜一童子有り。翁に謁して診を乞ふ。翁の曰く。咄咄、吾之を脉するに、汝人に非ず。何より來るや。童逡巡、頭を叩きて曰く。謝す、我は横巷石橋汚泥の中を居宅と爲す。二三日前、人來たりて敗魚を橋上に棄つ。饑に乗じて夜出でて大いに之を啖ふ。爾来腹痛止まず。苦悩誠に甚だし。敢へて來る所以なり。翁頷す。輒ち之に一竒藥を投ず。童、拜し去る。其の後雨夜、復た門を敲く者有り。翁出でて視る。頭禿し尾垂れ眼光鏡の如く、滿身の亂毛茸茸たり。四蹄地に伏し、庭上を拜舞すること三たび。忽ち見えず。蓋し來たりて疇昔の恩を謝する者に似たり。ああ、翁、扁倉の妙、殆ど老貍をして感動せしむるに至る。

田中金峰著『大阪繁昌詩』 巻之上(1862) 古林見宜宅 附老狸記 より

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