堀江(ほりえ) 長堀川西横堀より西を北堀江といふ。堀江川より道頓樹までを南掘江といふ。
この地はじめは下難波領の田園なり。元禄十一年公命によって市中となる。
原堀江の号は仁徳帝の御紀に宮の北の郊原を掘つて南水を引いて西の海に入れ、その水を号けて堀江といふ。
また『古事記』日く「仁徳天皇の皇后宮中に入りたまはず、御船を引き避けて堀江に泝り河に随ふて山代に上幸す」と云々。
しからば今の大川筋を堀江川ともいふならんか。ここの堀江は旧号あるによつて号くるものならん。むかしの古跡にはあらざるペし。
長堀の浜側には村石を多く賈ふ家かずかずあり。
    『万葉』        船きほふ拗江の川のみなぎはにきゐつつ鳴くは都鳥かも           家 持
       同           堀江には玉しかましを大君のみふねこがむとかねてしりせば        橘宿禰
    『古今』        堀江こぐたななし小舟行きかへりおなじ人にや恋ひ渡りなむ        河原左大臣
    『後拾』        命あらは今かへりこむ津国の難波堀江の芦のうらはに              大江嘉言
    『続古』        小夜更けてほり江こぐなる松浦船かぢ音高しみをはやみかも       人 麿








(1948年の米軍による航空写真)

元禄11年(1698)、河村瑞賢により、長堀川と道頓堀川の中間の荒れ地に堀江川が開削されて堀江新地の開発が始まった。

昭和20年(1945)3月13日の空襲で、堀江の町は壊滅し、堀江30橋のうち富田屋橋が落ち、建物は崩壊した。
瓦礫が投げ込まれて、堀江川はドブ川となり、昭和35年(1960)に埋め立てられて宅地となる。
長堀川は昭和39年(1964)に埋め立てられた。
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