堂島(どうじま) の市立(いちたち)は雑穀(くさぐさのたなつくもの)を糴糶(あきなふ)なり。
その市人を見るに、早旦(そうたん)より斜陽まで街に聚(あつま)りて、指頭(しとう)を揺(うごか)して百万の斛数(こくすう)を相対す。
その囂(かまびす)しき事いはん方なし。その年の豊凶、または時候の幸災、天地の順不順によりて、尊きあり、卑きあり。その高下の極を市[言貝](そうば)といふ。
これをまた須臾(しゆゆ)に遠き国々までもしらすとかや。いかなる術にやしらず。
粗(ほぼ)この市の始元を原(たづ)ねるに、俗諺に云く、天正年中に今の淀屋橋爪に淀屋巨庵(こあん)といふ豪富の者あり。豊太閤の旗下へ多くの軍粮(ぐんりょう)を運送する事年久し。
その恩賞として名画の鶏を腸ふ。多くの黄金の代となれば、世に賞じて黄金の鶏と呼ぶ。
これはむかし遣唐使の時、唐の玄宗帝より本朝へ献ぜられし宝器なりとぞ。巨庵が家は倍(ますます)繁栄して、国々の米粟(べいぞく)・菽麦(しゅくばく)を買ひ積みて、この橋爪にて毎朝市を立て、諸人に賈ふことその数際りしられず。
この家絶えて後、今の堂島にて市を立つる事は、淀屋が遺風なりとぞ聞こえし。あるが云ふ、今の淀屋橋もこの家より架け初めしとぞ。
また堂島といふは、近歳五花堂(きんせいごかどう)といふ風流者あり、原は洛に住みしが、浪花に移りて庭に梅・桜・牡丹・蓮・菊を植ゑて五花堂と号す。『羅山文集』に見えたり。
その頃この辺いまだ野原なりしが、貞享の頃公命によつて市中となれり。今は北浜といふ。大江橋・渡辺橋・田蓑僑・玉江橋等は堂島開発の後、元禄年中掛け初めしなり。
              堂じまの市立を見て
 指さきで百万斛(こく)をうとかすは蝸牛(かぎゆう)の角の争ひと見ん  九鯉
 北浜や水打つうへの初しぐれ  大江丸

      

堂島米市場跡記念碑(どうじまこめいちばあときねんひ)  大阪市北区堂島浜1-3
享保15年(1730)爆破は堂島米市場に米の先物取引である張合米取引を公認した。
その取引の手法は現在の大阪証券取引所を始めとする世界各地における組織化された商品・證券・禁輸先物取引の先駆をなすものであり、先物取引発祥の地とされている。
背後の像は昭和28年彫刻家横江嘉酸純氏により製作され、昭和30年堂島米市場跡建碑会により寄贈されたものである。


淀屋の屋敷跡(よそやのやしきあと) 大阪市中央区北浜4-1
近世の初め中之島の開発その他、大阪の発展に貢献するところの多かった淀屋の屋敷は大川町にあり、淀屋の名は今も淀屋橋に残っている。  昭和36年3月  大阪市建之


淀屋の碑
淀屋は江戸時代前期の大坂を代表する最大の豪商であった。
淀屋の豪富と闕所のことはあまりにも有名である。
淀屋の本姓は岡本氏。通称三郎右衛門。城州岡本の荘の出身。辰五郎の称もあった。
秀吉氏が天下をとるに及んで大坂に出て 十三人町(いまの大川町)にト居し、淀屋と称し、材木を商う。
元和元年京橋一丁目の淀屋持地に青物市を開き、また米の相場をたてる。
中之島を開発し、常安請地を開く。常安橋ー常安町の名がいまにのこる。
初代常安の長子(養子)喜入善右衛門、常安町家、斎藤町家、斎藤町家の祖となる。
次子(実子)常有五郎左衛門は別に大川町家の初代となり、言直から六代までつづく。
心斎橋筋から西肥後橋の間にその宅地あり。その宅内の小路を淀屋小路という。
四十八四十八戸前のいろは蔵あり。町人蔵元の元祖といわれたが、むしろ巨大なる米商人と自すべく、淀屋米市のために土佐堀川に自費で橋をかける。
淀屋橋であり、ここで行われた淀屋米市の盛大さはこの碑の絵が表現する通りであった。
     日本学士院会員 宮本久文  昭和63年3月19日


淀屋橋(よどやばし) 土佐堀川に架かる橋。
昭和10年(1935)完工。橋長 53.5m・橋幅 36.5m 。

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