大仏島(だいぶつしま) 富島をいふ。初めは新堀と号く。元禄年中市店となる。
大仏島の名義は、貞享の初め、南都東大寺大仏殿再建の大勧進として沙門竜松院公慶この島に小室むすびて諸国廻船入津の時勧進す。
そもそも、南都大仏殿は永緑年中松永久秀の冠火に罹りて回禄の災ありしより久しく先廃し、漸く仏像は山多道安といふ人修補して仮屋に安置す。
東大寺の僧竜松院公慶年二十歳に満たぎるが、大仏殿再興をただ一人して諸国を勧進す。人咸日く、大仏殿の大仰なる建立を僅かの寄附をもっていつの代にか成就せんとて欺きけり。
しかれども公慶法師は大坂富島の勧化所を弟子無伯に勤めさせ、自らは江戸浅草に寄進所を立てて往来を勧むる事年久し。ここに、あるとき官家の御簾中より仰せ出ださるるは、大仏殿の巍々たるを法師一人として再建を企つる事いといぶかしさよとありて、その法師を見たきよし仰せある。
侍者、賎しき法師御前へ御召させたまふ事恐れあり。御能御覧の日庭上へ出だし奉るペし。余所ながら御覧あるペしと申し上げる。さるによって御能の日かの公慶法師御舞台の前へ伺公す。
御能初まりて四番目に安宅の能あり。弁鹿は俊乗坊と成りて勧進帳を高らかに読み上げる。その時公慶法師庭上にて落涙涕哭す。官家よりこれを御覧じて御尋ねありしかは、公慶涙をおさへてその有司について申し上げるやうは、今日安宅の御能狂言とは云ひながら、むかし俊乗坊南都大仏殿建立の為諸国を勧進せらるる事は定めて莫大の苦労なるペし。今我が身にたくらべてその労煩心魂に徹しければ、落涙止みがたく涕泣仕ると申し上げ奉る。
官家御簾中一統に奇特なる者と御賞美有りて黄金一万両、御簾中より五千両、その外列国の諸侯よりも三千石五千石、また三ケの津町小路、諸国の在郷村々より公慶法師の行状を聞きつたへて、金銀米銭数多寄進しければ、忽ち大仏殿今のごとく成就しけり。
大仏供養には三座主宮諸門跡方御下向にてむかし文治の供養に異ならず。ゆゑに公慶上人の像、今南都大仏殿に安置しけり。
ここもその旧蹟なればとて大仏鳥と今にいひならはしけり。






文化3年(1806)


(1948年の米軍による航空写真)

富島 大阪市西区川口3
もと大仏島と呼ばれていた。
江戸時代三傑僧の一人・公慶が、永禄10年(1567)に焼失した東大寺大仏殿の復興を志し、全国勧進行脚の途中、この地に松庵をむすび付近一帯の浄財寄付を募ったところ、膨大な喜捨が集まったので大仏島と呼ばれた。
後に「富んだ島」ということから富島に変わったという。
古川町とともに元禄16年(1703)大坂三郷のうち天満組に編入された。幕末には萩藩の蔵屋敷もあった。
川口に隣接した波止場で、昭和20年ころまでは四国・九州への旅客船が出ていた。

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