芭蕉翁終焉地(ばしょうおうしゆうえんのところ) 南久太郎町六丁目花屋が裏なり。
蕉翁南都より難波に赴き、ここに旅ねして病床に臥し身まかりたまひし旧址なり。事は其角が『枯尾花終焉記』に見えたり。十月八日の夜の唫(ぎん)に、
旅に病んでゆめは枯野をかけ廻る はせを
つひに元禄七年十月十二日申の刻に没す。年五十三。一説に云ふ、この地は初めの旅舎にして、病重くたのみ少なきに及んでは、過書(かしょ)町難波端東北の角の家に、終りをとりたまふなりとぞ
白菊やめにたてて見る塵もなし はせを
この一章は先師難波におはして園女の垣収にここれを申されし句なり、されば甲戊の秋長月の末なるペし。これを生前の筆の名残とおもへは、殊更になつかしく今この事をここに書き添へたるなり。
元禄辛巳のとし 東花坊
この白菊の句の一軸、大江阪旧国家蔵
史蹟 芭蕉翁句碑 大阪市中央区久太郎町4-1-11 難波別院
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芭蕉句碑 旅に病で ゆめは枯野をかけまはる
松尾芭蕉は元禄7年(1694)、南御堂前の花屋仁左衛門宅で51歳の生涯を閉じた。 天保14年(1843)芭蕉150回忌記念に俳人たちのよって建立。