戯棚梨園(あやつりしばゐ) は竹本・豊竹とて両座あり。
義太夫節を初めし者は、貞享二年の頃東生郡天王寺村に五郎兵衛といふ農夫とかや。このもの生質浄瑠璃を好みて、京都の宇治加賀椽を師範とし音節秘曲を学び、また井上播磨が古流を併して義太夫節の新風を工夫し、みづからも義太夫とぞ名乗りける。
その頃近松門左衛門といふ者新扮戯を作り出だせしを音節をつけ、鞠挾の中に笹の丸の紋付きたる櫓幕を打ちて竹本と号し戯棚芝居を興行し、筑後藤原博教と受領し、元禄の末には竹田出雲、竹本が座本となり、倍戯棚傀儡道具立に至るまで美麗を尽くして繁昌しけり。
豊竹若太夫は大坂南船場の産なりしが、若年より井上・竹本などが流を学び名誉にして、初めは竹本と一座にありしが、その後別に戯場を立て豊竹上野と号し、また改めて越前藤原重泰と名乗りて相続せり。
この狂言作者近松門左衛門といふ者、本性は杉森氏にして長門国萩の産なり。京師に登りて雲上家に仕官し雑掌を勤め、兄は相国寺の宗長老、弟は岡本ー抱子といふ名医なり。妹を錦江といふ誹諧師にて大坂に住す。兄弟みな世に名高し。門左衛門は、元禄の頃仕官を退きて浪人と成り、京師歌舞妓芝居都万太夫、あるいは宇治加賀椽が浄瑠璃を作りしなり。芝居狂言作者の始祖たり。
その後竹本義太夫が作者と成って年久し。つひに享保九年十一月二十二日、七十歳にて没す。この者和漢の書籍を学び博識にして、当世の人情を察して世話をよく考へ、百余番の浄瑠璃狂言を作る。中にも国姓爺合戦の狂言その妙を得しとぞ。
    近松門左衛門一周忌
        さつするに今は安楽同姓爺さてもその後ぴんぎなければ         貞 柳








国立文楽劇場(こくりつぶんらくげきじょう) 大阪市中央区日本橋1-12-10

大阪市立高津小学校の旧跡地に、黒川紀章の設計で1984年に開館。





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