朝日神明宮(あさひしんめいぐう) 松屋町筋安堂寺町の北にあり、世に逆櫓社といふ。







朝日神明社(あさひしんめいしゃ) 大阪市此花区春日出中1-6-21
当朝日神明社は、朝日・日中・夕日の浪速3神明の1つとして有名であった朝日宮(東区神崎町)と皇太神社(此花区川岸町)を合祀してものである。 朝日宮(逆櫓社)は朱雀天皇の天慶年間(940年頃)に平貞盛の創建するところであって「承平・天慶の乱」の後、貞盛の戦勝を叡感された朱雀帝は 当社の御神徳を称えられ、朝日宮という神号を賜わったという。 当社はまさに勅願の故もあって豊臣秀吉の崇敬も厚く、年々米百俵を寄進された。又、元和元年(1615)の大坂夏の陣に際し、真田幸村が当社に金色の采配を奉納して出陣したという。 尚、源義経が平家追討の途次朝日宮に戦勝の祈願をされた。「一の谷」の合戦後、梶原景時と史上有名な「逆櫓の論」があったが、義経は、当社に祈願をこめているので戦勝疑いなしと景時の論を退け平家を西海に討滅した。此時より当社を一名逆櫓社ともいわれるようになったのである。 皇太神宮は古くより川岸町に在った。この川岸町は、かつて南新田といわれたが伊勢神宮の御分霊を乞い受け神祠を造って新田の鎮守の社として奉斎していた。 皇太神社は、明治40年に朝日宮を合祀して「朝日神明社」と社号を改めた。しかし川岸町一帯は世の進むにつれ工場地として発展した為、昭和6年現在地に遷宮した。 第二次大戦中(1945)惜しくも戦災を受け当社境内はもちろん春日出一帯は焼土と化したが戦後総代・氏子崇敬者諸氏の尽力によって本殿・幣殿・拝殿・そして手水舎を復興し、現在に至っている。


拝殿


本殿  祭神:天照皇大神・倭比売命


初日稲荷神社
初日稲荷神社は、往古大阪市中央区神埼町に鎮座し、「千年の老狐にして古に伊勢より来りて、ここに晒しとぞ」と古文書に記され、その後、老狐が「正一位初日」と墨跡を残している。 当社は、創建以来、五穀豊穣・商売繁盛と家内の安全をお護り下さると伝承され、奉斎してきたが、昭和20年戦火により焼失し、氏子・崇敬者の尽力によってここに再建された。    平成3年5月


春日社
元禄11年、奈良の春日より生駒の山を超えて1匹の牡鹿が当地に出てきた。
その時此の辺の開墾に従事していた人夫達が、この鹿を殺獲した。
当時、この地の開墾を任されていた雑賀屋七兵衛がこれを傷み、土中に埋めて、一社を創建し、春日大神を勧請して社名を春日社と称したのが始まりである。v 以後此の地は、「春日より鹿が出てきた」という故事によって、「春日出」とよばれるようになった。その後も春日出の氏神として地域の人々の信仰をあつめていたが明治40年朝日神明社が此の地に遷宮するに伴い、境内神社筆頭(摂社)の社として奉斎した。
しかし、第二次大戦中大阪大空襲にて焼失し、今日に至っていたが、春日大社の葉室頼昭宮司のご厚意によって、春日大社ご造替に伴い、本宮社の旧御社を徹下いただいた。この本宮社とは、春日大社の御神体の御山(御蓋山)の頂上に鎮座されていた御社である。
この御社を当社にお移しし、氏子・崇敬者の芳志によって、ここに半世紀を過る春日社が再建された。    平成7年6月吉日

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