朝来池(あさきのいけ) 天満十町目条女夫池(すぢめをといけ)町の東にあり。
この池水を耕作の用水となすにより、汲む事を禁じければ、後世その側にまた一つの池を掘って、土人女夫(めうと)池とよぶ










夫婦橋柱碑(めおとばしはしらひ) 大阪市北区天神橋3  阪神高僧道路高架下
江戸時代の中頃、朝来池の傍にもう一つ小さな池を掘り、合わせて夫婦池といった。
天保8年(1837)頃堀川に淀川の水を通すため開削し、女夫橋が架けられていた。



昭和4年竣工時の夫婦橋

夫婦橋は、旧天満堀川が天神橋筋と交差する所に架けられていた。
堀川は、当初豊臣秀吉時代の慶長3年(1598)に一部が開削され、その後天保9年(1838)に扇町から東北へ延伸された。夫婦橋はこの堀川の延伸に伴って架けられたものである。
延伸前ここに女夫池という池があった。この名の起こりについては二説あるが、その一説に昔この辺りに仲睦まじい若夫婦が住んでいた。わけあって夫は妻に三年間待ってほしいと言い置いて他国へ出かけた。期限が過ぎても帰って来ないので、妻は思い余って池に身を投げて死んだ。その後夫が戻って来るが妻の死を知り、後を追って入水して果てた。世人これを哀れんで女夫池と呼んだという。v 天満堀川延伸により池は埋められ能勢家の邸と妙見堂が建てられた。
縁日にはこの「夫婦池の妙見さん」は参詣人で大変賑わったという。
夫婦橋は、昭和四年に一径間鋼鈑桁の近代橋に生まれかわった。
戦後堀川は環境が悪化したので埋め立てられることとなり、川筋は阪神高速道路の高架橋の下に入り、この辺り天保9年に開削された処も昭和47年には変面道路となり現在に至っている。                             平成11年 大阪市



『芦分船』  延宝3年(1675)出版
若くして死んだ、夫婦を哀れんで詠まれた句。
  水もらぬ契りのすえはくびたけに おもひ志つみし女夫池かな
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