油懸地蔵(あぶらかけじぞう)安堂寺町一町目の衢(つじ)に在す石仏なり。祈願の者油を酒(そそ)ぐ、かるがゆゑにこの名あり。
『摂津志』日く「『日本紀』に見えたる安曇寺(あんどんじ)の石像なり。背面に天平十一年安曇寺の銘ありとなん」。
今これを原(たづ)ぬるに磕滅(かいめつ)して見えず。今の安堂寺町も安蜃寺の訛なりとぞ。






油掛地蔵(あぶらかけじぞう) 大阪市中央区南船場1-12
安曇一族の繁栄を願って建立した安曇寺に鎮座していた石仏と伝えられ、「日本書紀」孝徳天皇白雉4年5月条に「僧旲法師が病を得て安曇寺に臥したので、天皇が見舞った」とある。
嘉元4年(1306)銘の鐘は豊臣秀吉が朝鮮出兵の際の陣鉦として徴発され、後に京都山科の安祥寺に払い下げられたとあり、朝鮮出兵の1592年前後に廃寺となったようで、この地蔵は現地にあった明善寺に移された。
明善寺は昭和20年3月の空襲で全焼し、住吉区大領へ移るも、地蔵は今もこの地に安置されている。



明善寺油掛地蔵尊縁略記
旧明善寺境内に鎮座されていたこの地蔵尊は、古事記・日本書紀・摂津名所図会等に記載されており、1300有余年前、孝徳天皇の御代で古色蒼然たる誠に古い石仏であります。 天平の文字が記されていますが、何分長世の事とて、油と塵埃でかくれています。 昔から悪疫・火防等の退散、その諸仏縁、まことによろしく、古来万人の信仰の対象となっておられました。 然るに昭和20年3月13日の夜半、あの大戦による大阪空襲の為、業火の犠牲となられましたが、尊前のお線香の捧げられていた大きな石つぼが真二つに割れていましたが、 お地蔵様は、そのままでお立ちあそばしておられました。    (後略)
                    平成2年5月8日   安一町会長


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