HOME > 巻之三 西成郡


慈雲山瑞竜禅寺(じうんさんずいりゆうぜんじ) 難波村北端にあり。禅宗黄檗派。
仏殿薬師仏(十二神将を安ず)天王殿(中央弥勒仏、左右四天王、後堂韋駄天)禅堂(仏殿の左にあり)祠堂(禅堂に隣る)鎮守(祠堂に隣る)禅悦堂(仏殿の右にあり)
 それ当寺の開基は鉄元(てつげん)和尚なり。その初めは薬師寺といふて邑支配の寺なりしが、寛文十年和尚ここに止住したまふ。産は肥後国本願寺末下の寺に生まれ、すでに妻もありしが、その宗徒不徳無才の人も寺格により上位に居る事を甘心せず、黄檗山に登り木庵(もくあん)禅師に従ふ。その妻なる人尋ね登りしかども対面せざるを、はかりて黄檗の門前に旅宿して師の出づるを窺ふに、ある日はたして出でたるを強ひて誘ひけ九は、止む事をえず伴ひて故国へ触りその郷まで入りしが、ぬけて上途し、また黄檗に至る。 法を嗣ぎし後、延宝四年当山を建立せり。世の人今なほ鉄眼をもてこの寺を称ず。一切経の蔵板を思ひ立ちて勧進せしに、その料金聚まれる頃、天下大いに餓ししかば、師憐みて件の金を残らず施し、また前のごとくに勧進せるに数年ならずまた集まりたるが、ふたたび五穀不熟にて餓死多ければ、このたびもこの金を施行に尽くせり。されども徳の至りにや、第三回の勧進にて蔵経の印刻成就して、その経を頒つ所の代金を本尊より以下一宗の寺々に配ること今において同じ。この師仏学深く説法能弁にて、俗間を化度する事多けれ。なは余は『行実録』に見えたれはここに略す。
 瑞竜門山鉄元和尚行実
 師諱は道光、鉄元はその字なり。寛永庚午の年正月朔日を以って把の後州益城都佐伯に生まる。父の名は浄信、篤く仏乗を尚び、晩に蓮杜に入る。母は某氏、素より淑徳有り。師纔かに襁褓を出でて、黠慧群児に超ゆ。父母甚だこれを鍾愛す。年甫めて七歳、父観経を授くるに、すなはち能く暗誦す。十三にして郡の海雲法師に投じて髪を落とし緇を披る。十七、会豊前の永昌法師、起信諭を講ず。往きてその説を聴くに、声入り心通じ、慧解濬発す。一時の老宿咸(ことごと)く賞識を加ふ。一日母の訃を聞き、郷に回りて追資す。庚寅の春、同志数輩と笈を負ひて洛に入り、徧く講肆に遊び、竺墳魯典精研せずといふこと無し。ここに由りて声誉四方に絶出するとと有り。明暦乙未の秋、黄檗隠老和尚、東渡して長崎の東明に寓す。師、礼謁せんことを欲して、舟を大坂に期つ。偶崎主・黒川善信と、同じく載りて往くことを得て、衣を更へて東明に入り、備に求道の切なることを陳ぶ。老和尚、一見して法器為ることを知り、命じて衆に随ひて参堂せしむ。その従前の学ぶ所を一時に放捨し、昼夜孜々として己に躳下の事を研究す。いまだ幾ならずして、老和尚、請ふに摂Hの普門に応ず。時に木庵和尚、分紫の席を主る。直ちに前んで咨叩す。一日室に入り横に捷出して仁に当て譲らず。和尚打ちて趁ひ出だす。師、偈を呈して去る。飄々然たること野鶴孤雲のごとくして、留礙する所無し。普門に入りて老和尚に礼し、再たび分紫に往きて、すなはち室に入ることを得たり。(中略)寛文壬寅の歳、夏満ちて寿陽に回るのとき、早魃虐を為せり。師、七日を尅して期とす。衆を率ゐて楞厳呪を誦し、民の為に雨を祈る。期満つるの日に応たりて、黒雲四方に興り、甘雨大いに澍ぎ、遠近充治す。群民甚だ悦ぶ。師嘗て慨く、吾が邦古より仏国と称し、教法始めに東に被りてより、伽藍・像を設くること支那に亜がず。名師碩徳、代々人に乏しからず、独り大蔵の版のみ向よりいまだ世に刊行する者の有らず。国中の闕典為るに非ずや。契経に言へること有り、菩薩万行の中、法宝を流通するを最と為す。余幸ひに清世に生じて、悉く緇倫に厠る。誓ひてこの身を尽くして、まさに力めてこれがため徧く邦人に与へ、永く般若の勝緑を結ぶべし。因りて、二三子携へて大坂に抵り、専ら刻蔵の謀りごとを為す。戊申の春、素見禅柄曁請善信請じて、起信諭を月江精舎に講ぜしむ。時に観音寺妙宇道人といふもの有り、来りて講莚に預かる。その刻蔵の挙を聞きて、欣然として心を発し、白金一千両を捐つ。師喜びて日く、聞く千尺の高閣も成ること初基に在りと、今既に基在り、全蔵を刻成せんこと必せりと。急に黄檗に登りて隠老和尚に啓告す。和尚諾然として日く、老僧法の為に東来し、将軍の地を賜ひ刹を建つることを蒙り、化風大いに振ひ事々如意なり。ただし闕く所のものは蔵版のみ。意はざりき、衰質いまだ尽きず、この勝事を聞かんとは、老僧願足れりと。偈を作りてこれを称し、その蓄へる所の支那の蔵本を賜ひ、また地一所を割きて、蔵版を貯へる地と為さしむ。師、踊躍に勝へず、宝蔵院をその地に建て、印房を京師に開き、先づ目録を検して数十函を刻せしむ。
梓人蟻の集まるがごとく、施者麕の至るがごとくして、殆んど紫柏大師の時に減ぜず。つひに役を諸子に命じ、特に往きて縁を武江に倡へ、楞厳を浅草海雲寺に講ず。この時に当たりてや、諸山の碩徳一時の名公、若き武夫悍将街童竈婦に至るまでも、席を受くること無からんことを恐れて、霹宿して以って時を俟つ。曾ていまだ幾何ならざるに資塡委す。その法会の盛なる、与に同じき者の無し。(中略)庚戌の春、難波の諦善信、重ねて薬師寺を修し、請じて中興の祖と為す。寺は乃ち深沙明王大般若経を持して始めて至るの地なり。師、宿縁在ること有るを感じて、幡然として至り、その名を易へて慈雲山瑞竜禅寺と為す。遠近の学徒風に嚮ひ奔赴すること、水の下に就くがごとく、雲の壑に帰るがごとし。(中略)明年の容、楞厳を瑞竜に講ず。秋復た武江に赴く。井伊氏掃雲院夫人、海蔵庵を剏めて(正徳三年、公許を蒙り、庵を改めて寺と為す)これに居らしむ。師一夜定中、偈を説きて日く、
  荊棘林中線路通じ      等閒に踏破す太虚の空
  頓に明月清風外に超えて  安住す鑊湯鑪炭の中
 嚮に大眉和尚、黄檗の東偏に就きて、東林院を剏む。その地高邃にして火患を離るペし。老和尚、蔵版を護惜するの心有るを以って、手契書を修し、遂にその地を将って易へて宝蔵院と為きしむ。師、大いに感喜し、大庫三つを営建して、以つて全蔵の版を納むる。甲寅の昏、家父の病を聞きて往きて湯薬に侍し、勧めて浄業を修せしむ。簀を易ふるの後、その居る所の宅を転じて三宝禅寺と為し、以って考妣の香火を奉ず。太守細川源公、親しく城中に迎へ、師の言行純愨なるを嘉して歎じて日く、誰か知らん、我が国にこの人有らんとは、誠に国宝なりと。心を虚しくして法を問ひ極めて崇礼を加ふ。時自り厥後年々黄金千錠を捨てて以って刻蔵を助く。秋、頂宝山請じて薩州に遊ばしむ。州の鉅刹を名けて福昌と日ふ。楞厳経を講ぜしむ。時に琉球国の王子、師に福昌に謁して屢々法要を問ふ。豊州の久留島の太守、師と素より方外の交誼有り、迎へ請じて経を安楽寺に講ぜしむ。師力めて仏旨を宣揚す。地に無頼の輩有り、厭悪して置かず、大いに遠近の衆を集めて、まさに害を師に加へ太守を脅さんとす。師、神情間曠として聞く所無きが若し。太守、有司に命じて師を送りて境を出だして、その党首三人を収めて獄に下す。師、その事を開きて僧を遣はして懇救す。太守感じて日く、仇を報ずるに恩を以ってすとは、それ我が師が謂ひやと。遂にこれを赦す。丙辰の春、木老和尚を省す。問答の際、機縁契合して親しく心印を承く。四月、父の忌辰に値ひ、瑞竜に就きて法華経を講ず。秋また武江に赴く。閣老稲葉公、師の至るを聞きて供を設けて道を問ひ、言ふこと刻蔵の事に及ぶ。師、実を以って告ぐ。公、讃美して已まず。戊午の秋、鏤版将に功を竣らんとす。すなはち表章を製し、経に随へて太上法皇に上進す。竜顔大いに悦びたまひ、群臣に謂ひて日く、大蔵の巻帙かくのごとく繁多なるに、しかも能く梓に登す。その志謂ひつべし。堅にしてかつ確し、法門の功臣実に天下後世を福する者なりと。合宮の勲貴も、また末曾有なりと歎ず。嘗て、瑞竜の地民家に逼近して行動に宜しからず。官に稟して地を遷し、大雄殿を建て、すなはち楞伽宝経を講じて以つてその成を落す。いまだ幾んどならざるに、選仏場曁演法の堂を構ふ。その伽藍の宏敞なること江南の叢林に冠たり。会々市人、私の怨を以って他の家奴を誣り、その主人を毒殺すと。累るに官に聞かす。師、その罪無くして死地に就かんことを憫み、奔訴して免を請ひ、かつ謂ひて日く、彼等実に罪無し、若し的情有らば我まさに罪伏すペしと。因つて極刑を免がるる者の一十余人なり。聞く者感激せずといふことなし。尋いで、大蔵経を以って疏を具へ、征夷大将軍に進ぜんと欲し、また武江に赴く。壬戌正月、忽ち諸人に告げて日く、山僧春の末、大いに事の在る有り、ここに滞るべからずと。すなはち諸子を率ゐて瑞竜に回る。武江の道俗、轅を攀いで懇留し衷慕して已まず。この春、畿内荒歉して流民道に載つ。帥轟然として心を傷ましめ、多く銭穀を化してその饑乏を拯ふ。日に殍死を免るる者の凡そ一万余人なり。月を踰えて止む。一時称して救世の大士と為す。二月二十九日、俄かに疾作す。衆の為に説法すること常時に異ならず。病勢稍重くして飲食漸く減ず。諸医薬を以って晋むるに、自ら起たざることを知りて従容としてこれを却く。三月七日、諸子を集めて後事を区画し、既にして云はく、山僧化綾将に訖らんと、汝等幸ひに春秋を富有す、慎んで世緑に捗ること勿れ。唯々念々道に向ひ大事を究明せよ。すなはちこれ吾が門の種草なり。刻蔵の一事は諸仏慧命の関はる所の者たり。このゆゑに山僧一紀の間、百苦を歴尽して、今己に成ることを告ぐ。汝等宜しく我が心を体して、これをして無窮に流通せしむべし。可なりと。木老和尚伴僧を遺はし書を賚ひて疾を問ふ。師、使に対して恩を謝す。次の日書を修して講護法を謝す。その数日間、来りて疾を問ふ者の道に絡繹たり。二十二日、觚翰を索め、偈を書して日く、
 七顛八倒すること五十三年  妄りに般若を談じて罪犯天に弥る  華蔵海に優游して水中の天を踏破す
書し畢りて泊然として逝す。実にこの日巳の時なりもすなはち昏末大いに事有るの言に符へり。識る者のこれを異なりとす。報身の寿を亨くること五十又三、沙門の衣を服すること四十の春秋。櫬衣を更へるに当たりて手足の屈伸平時に異ならず。 龕を停むること三日、顔貌生けるがごとし。荼毘の日送る者十万人に余れり。各々香華を持ちて施繞して供を為す。号泣泣声、林野を震動す。その遐方徧郷、いまだ曾て謁見せざるに、師の世を謝することを聞きて、大息せずといふこと靡し。木老和尚および諸方の尊宿、各々悼むに偈を以ってす。蓋し法門の下衰を嘆じてなり。遂に遺骨を奉じて、塔を宝蔵の西隅に樹つ。すなはち帥の死すと雖へども大蔵を忘れざるの意を体すればなり。仏国高泉和尚、嘗て師の為に真に題して云く、者の老子、徳窮り難し、僧中の鳳、法中の竜、福足恵足完通し読通す。覆餗
むの日に及ぶまで、四十年の間寧し処るに遑あらず。宗を扶け教を輔くるの心、日月と雖へども老すること能はず。衲子と箇の事を激揚するに及んでは、痛棒熱喝、少しも仮借すること無く、病に応じて薬を与ふるに至りては、能く曲に方便を施す。唯だ一夫もその所を得ざらんことを恐る。このゆゑに心を浮華に酔はしむる者も、一たび師の頗を見るとき、すなはち魂消し意解く。貧者には衣食を分けて各々そのl欲する所を飽かしめ、病者には湯薬を餉してその左右を離れず。路に棄児を見るときは、すなはち人に托して乳養せしめ、途に囚人に逢ふときは、すなはち官に訴へて免を請ふ。その弘慈利物一天性に出でて、勉強する所無し。事、刻蔵に係れば死すと雖へども顧みず。経論を講演すること凡そ一十余会、聴く者の動れば数万に至る。得る所の施刑悉く刻蔵の資と為す。ゆゑに化を戢むるの後、嚢に余蓄無し。凡そ寺院を収むる者の八つ、日く瑞竜、曰く宝蔵、日く金禅、日く海蔵、日く小松、日く三宝、日く宝泉、日く延命なり。所度の弟子若干人、戒法を受け法名を乞ふ者、指して屈するに勝へず。ある者謂ひて日く、我が宗貴ぶらくは明心見性に在り。しかるに師常に経論を講ず、豈に直指の旨に違するにあらざらんや。師、笑ひて云く、子何ぞ言ふこと易々たるや。それ禅は水なり、教へは波なり。禅を取りて教へを捨つるときは、すなはち波を撥きて水を求むるがごとし。教へは器なり、禅は金なり。教へを取りて禅を捨つるときは、すなはち金を棄てて器を尋ぬるがごとし。波は水を離れず、器すなはちこれ金なり。烏禅と数と二致有らんや。苟しくも能く性に称ふときは、すなはち縦ひ説きて弥勒の下生に到るも、いまだ曾て口を啓かず。見ずや、大覚世尊言の始め鹿野苑に従り、終り跋提河に至るまで、いまだ曾て一字をも説かず。また人有り、書を以って大慧和尚に寄せて公案を大慧に示さんことを請ふ。大慧答へて云く、聞く、汝常に円覚経を読むと。吾が示す所の公案もまたその中に在り。ここにおいて会取せは、余が経論を講ずるはまた何ぞ傷まんや。ある者言ふこと能はずして退く。師詩偈を作ること罕なり。凡そ来り求むる者有れば、ロを肆にして説く。曾て思を経ず。然れども条理清整にして皆道玅に通徹す。稿を留むることを許さず。遺録僅かに二巻有り。今蔵に附して流通す。聡、黍くも左右に侍すること最も久しく、顛末を知ることもまた詳らかなり。恒にその訓誨の恩を思ふに、何ぞ天覆ひ地載するに異ならんや。歳月狙き易くして巳に三十年を過ぐ。その後生晩進んで師の覆歴を知る者鮮し。更に三十年を過ぐるとき、すなはちまた知る者の有ること無し。これを用つて非才を揣らず、聊かその便概を書して以って来裔に昭示すと云ふ。元禄三庚午の年、聡、公命を受け新たに蔵経を製し、疏を具へ上進し白金を腸はることを蒙る。遂にその未了の事を了す。徒僧祥雲嘗て価命を受け、武江の地に就いて、手から五百阿羅漢の像を彫み、元禄八乙亥の年、地を賜へることを蒙り、刹を建ててその像を奉安し、因つて名づけて天思山羅漢寺と日ふ。師を奉じて開山始祖と為す。存歿慶幸、筆墨に尽く述ぶるべきに非ざる者なり。
時に
  正徳第四甲午年三月朔旦
 あるいは日く、鉄元和尚初め黄檗山に在せし時、貧困にして行乞に出でられしに、鉄鉢もなく小笊籬を求めてそれを黒き紙にて張り、代はりに用ひたまひしとかや。その隣地に東林院大眉和尚といふあり。唐僧にて福祐の人なり。書物・仏具・器財・金銭までも多く貯へもたれし長老なりしが、鉄元と管鮑の交り深く、ある日、鉄元独言して日く、もはや蔵種の版木半に出来たり。わが庵はなはだ狭くしてこれを置くに所なし。隣の大眉和尚の住ゐはいと広くして浦山しきよとつぶやかれけるを、垣越しに大層聞きて、われ福祐と産れて生涯何の功もなし。鉄元は貧窮なれども蔵経の大功を立てたり。今日よりわが院をかれに譲りてその誉を立てさせんとて、その日より鉄元と入り代はりたまひしとぞ。大眉の弟子等いふ、仏像・書物類はせめて御身に従へたまへといへば、大眉嘲笑って、いやとよ、互ひに入り代はらんとは鉄元が持たれし小笊籬の鉄鉢こそ我が物なり。相かまへて器財・雑且一つも動かす事なかれと言はれしなり。この大層和尚も智始の人と見えたり。ゆゑにここにしるすのみ。

淡々翁墓(たんたんおうのはか)瑞龍寺境内にあり。墳に一石一樹を植ゑたり。この人もとは江府の産なりしが、京師に登り六波羅のほとりに住ゐして、もっぱら俳諧をもって一派を立てけり。羅人(らじん)・竿秋(かんしゆう)その門子たり。しかれども羅人は破門して貞徳門正流に帰す。淡々翁それより浪花に赴き、半時庵(はんじあん)と号し、嗅洞(かくほう)・富天(ふてん)を従へて世に鳴る。延享の頃は江戸堀五丁目に住し、その後堺の津只清(しせい)が隠居に移り、また大坂心斎橋捕飾屋町木村氏が座敷にて、病もなくつひに宝暦十一年十一月二日歿す。百川長水と謚しける。年八十八。
   古稀の春
  貧乏の年なりけりな福寿草      半時庵淡々
  きじ囁くや雲のさけ間の不動尊    同
  蛇に寝ぬ夜一とせ嵯峨のやまざくら  同
  森の鵜の憂をうらやむ篝かな     同
  朝霜や杖でゑがきしふじの山     同
この句は何にても我が辞世なりと云ひおかれしが、はたして霜月二日に寂せられき。



瑞龍寺(ずいりゅうじ) 大阪市浪速区元町1-10
黄葉宗万福寺末寺 慈雲山 創建年月不明。
はじめは薬師堂であったが、寛文10年(1670)僧鉄眼が再興して瑞龍寺と改称。
大坂での黄葉布教の拠点になったため、俗に鉄眼寺と呼ばれている。
戦災で全焼、昭和55年再建。


本尊:薬師如来


鉄眼和尚茶毘跡(てるげんおしょうだびあと)
天和2年3月22日本寺で没、この処で茶毘に付した。56代の龍珠明師の再建。


開運稲荷 宝暦元年(1751)河内屋作兵衛が創建した鎮守社。

地蔵堂  延命地蔵 元禄9年(1696)鉄眼が設立。

 
高源朝水居士(松木淡淡・まつきたんたん)・芭蕉・其角墓(昭和51年再建)。

暁鐘成翁墓(あかつきかねなる)
『摂津名所図会大成』の作者
八千房舎桲(はっせんぼうしゃぼつ)

致陰江其梁墓(水元其梁・みずもときりょう)

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