木津鼬川(きすいたちがは)  木津村にあり。天王寺伽藍建立の時、良材ここに着しける津なるによってこの名あり。
その時多くの鼬出でて、海より運送の川を掘りけるによつてなづく。願永寺の縁起にも見えたり。その証詳らかならず。









鼬川(いたちがわ) 四天王寺建立の用材をここから運搬するために掘られたと伝えられている。
願泉寺の住職小野多嘉丸が多数の鼬が西から東へ走っていく夢を見て、川を掘ることにしたという。


鼬川くり船発掘の地(いたちがわくりふね) 大阪市浪速区難波中3-10
明治11年(1878)いたち川と難波新川の貫通工事中に全長12m程のくり船が発掘されました。くり船とは丸木船のことで発掘されたのは複材くり船であり、前後2本のくすのきで造られ、継ぎ目の部分は釘を使わず巧みな仕組みになっていました。船出町の旧町名はこれに由来し、明治33年(1900)から昭和55年(1980)まで使われていました。



願泉寺(がんせんじ) 大阪市浪速区大国2-2-27
浄土真宗本願寺派 日下山
推古天皇11年(603)に小野妹子の8男、多嘉麿義持(永証)により創建。建久年間(1190年頃)22世秀意の時代に圓楽児の座主慈鎮が立ち寄り、木津山無量寿寺と号して天台宗に加えた。応仁の乱で焼失。
27世浄教が蓮如に心服して真宗に改宗し、天正4年(1576)31世定龍が現在地に移す。顕如上人が石山本願寺で信長と戦うと、定龍は木津・難波・高津の門徒を指揮して大いに戦うも天正10年兵火で焼失。
慶長2年(1597)再建して准如上人から本願の一字を採って願泉寺の寺名を授かる。
また、定龍は利休の門下で、秀吉からは茶人として厚遇され、伊達政宗が弟子となり、寄進した書院や茶室があったが、1945年の戦災で焼失した。



本堂 



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