佃住吉神祠(つくだすみよしのやしろ) 佃村の生土神なり。武州豊島郡佃島生土神。住吉神祠は当社の分社なり。
ゆゑに例祭同月同日なり。正月十七日・六月三十日・九月十五日
 田蓑島の古跡にして、当社御鎮座の由来は人皇十五代神功皇后三韓より御凱陣の時、しばらくこの所に御着岸ましましたまふ。そのとき当所の海士鮮魚を献じ奉りければ、勅命ありてこの王船の鬼板をもつてこの所に住吉大神を祭り奉れとてさづけたまふ。
この神宝今に伝はりて本殿に安置す。その後教千年を経て慶長のころ、当佃村・大和田村の漁船神君に鮮魚を献じ奉り、なほまたその砌、神崎川筋・大坂川内および西ごく海上の御隠密御用など承り、縁によりて御入国のみぎり漁師ども御供に罷り下りて魚漁いたし、すなはち鉄砲洲干潟を築き立てて拝領す。ゆゑに島の名を佃島と名づけ御除地にて、いまにいたりて御前へ御さかなを日々おこたりなく戯じ奉るなり。この由緒によりて、往古より氏神、住吉屋しろ境内において御宮を祭りたてまつるものなり。また江戸佃島住吉社内にもおなじことに祭り奉るなり。神主も当社神主平岡氏の分家なり。
 村長江川氏の庭に、むかしより平経時の石碑これあり。
 『古今』     難波がた汐みちくらしあま衣たみのの岳にたづなきわたる       よみ人しらず
  同       雨により田蓑の島をけふやけと名には隠れぬ物にぞ有りける     貫 之
 『新千載』   あまころもたみのの島の夕しほに千年をさしてたづぞなくなる     為 氏
          名にしおふ田みのの島に住みなれて雨にはぬれしつるの毛衣    神主永那
          いにしへの跡をたづねて真名つるのたみのの島に来てぞ啼くなる  同 永久
御由緒のことは委しく記すにおよばず。田蓑の島のことは佃村に相違なし。



田蓑神社(たみのじんじゃ) 大阪市西淀川区佃1-18-14
神功皇后が九州からの帰路佃島に宿泊、住民たちが鮮魚を差し上げたところ大変お喜びになって、乗船の鬼板を取り出し、これと住吉大神を祭るよう言ったと伝える。
貞観11年(869)9月15日鎮座。寛保元年(1741)9月住吉神社と改名し、明治元年田蓑神社となる。


鳥居

 
狛犬 昭和62年10月吉日


拝殿

 
本殿  祭神:底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命・神功皇后


社殿左の鳥居


東照宮 徳川家康公   金比羅宮  大物主大神


七重之社  天照皇大神・猿田彦命・事代主大神・大国主大神・応神天皇・少彦名大神・菅原道真公


稲生社  宇賀御魂神


紀貫之歌碑    雨により田蓑の島をけふゆけど なにはかくれぬ物にぞありける  紀貫之
 『古今和歌集巻十七、雑歌上』 なにはへまかりけるとき、たみののしまにてあめにあひてよめる
     阪本二豊書 昭和49年5月18日建立。


佃漁民ゆかりの地碑(つくだぎょみんゆかりのちひ)
佃島は古来漁業において名があり、殊に正保年間には江戸鉄砲州東の地を開発、一部移住し佃島と名づけ今日の盛大に至らしめた。  大阪市 昭和39年3月建之
天正14年、徳川家康公が大阪住吉大社、摂津多田神社に参拝の折、神崎川の渡船を勤めた縁より、後に漁業権の特権を与えられ、また将軍家への献魚の役目を命じられ、佃の人等33名と田蓑神社宮司平岡正太夫の弟、権太夫好次が移住した。当所住居が与えられた安藤対馬守、石川大隅守の邸内に住吉四神の分神霊を奉戴して一時奉祭した。後に、寛永年間に幕府より鉄炮洲の地をいただき埋め立て造成し、天保元年、故郷の佃村にちなみ「佃島」と命名し移住。(現、東京都中央区佃島)また、正保3年6月29日住吉大神の社地を定め、住吉の四柱の大神と徳川家康公の御霊を奉られた。(現、東京佃島の住吉神社)

 
鳥居 狛犬


北鳥居

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