玉造清水(たまつくりのしみず) 下清水町にあり。字を九軒といふ。
初め傾城町玉造にありし時、九軒茶屋といふ。
近世まで隔子作りの家残れり。またこの辺に伏見坂町といふ遊女町あり。
これも後世道頓堀の南に移れり。今の坂町の旧地なり。









利休井(玉造清水) 大阪市中央区玉造2-3-8 玉造稲荷神社 
豊臣/徳川時代に大坂城の鎮守神として篤い崇敬を受けた当神社は、その繋がりが深く、付近には武将・前田利家の屋敷を始め、茶匠・千里急も屋敷を構えていました。利休屋敷には利休井があったと伝えられ、古くより「玉造清水」と呼ばれる良質の水脈を使い、この上町大地東端の良き自然環境にも恵まれ、茶の湯文化を育んで参りました。

当神社は付近には他にも、門人の細川越中守忠興(三斎流)の「越中井」や、もう一人の門人であった古田織部(織部流)の「山吹井」が存在したと「摂津名所図会大成」などに帰されております。
さらに、江戸時代中頃には神社境内北側(現・玉造小学校)で酒造りが行われており、酒造り用の竈類も近年発掘されました。灘、伊丹、伏見と共に、ここでも酒造りが栄えていたことが文献にも見受けられます。
この井戸は平成18年8月にNPO法人「大坂城甲冑隊」らによって再掘されました。



千利休居士顕彰碑
大坂城三ノ丸にあたる当社の南西は玉造禰宜町(現玉造町)と称し豊臣時代利休屋敷があったと伝えられ、当時お茶の水をこの邸内の井戸にて汲まれ付近の清水谷の地名もこれら良質の水脈が存在するために名付けられたと『摂津名所図会大成』に記されております。 今般土地柄利休居士の遺徳を偲ぶことは誠に意義深いことであります。
                          昭和52年5月


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