證如上人旧蹟(しょうにょしょうにんおきゅうせき) 野田村円満寺なり。
伝へ云ふ、天文元年八月二十四日、本願寺第十代證如上人住職したまふ山科の御堂を、江州佐々木六角弾正定頼と日蓮宗の僧俗と一味して、四方より囲み放火して攻め落とし、大坂までも追ひ来りて、上人を責め討たんと戦ふ。この地および近郷の門徒馳せ集まり身命を惜しまず防ぎけり。また天文二年八月、不意に敵攻め来りて、上人の御身も危ふかりしに、野田・福島の門徒、命を惜しまず敵を迫ひ払ひける程に、敵味方、討死・手負多かりける。證如上人、討死の門下を憐み御真筆の御文章を下されける。今当村極楽寺にあり
  その文に云ふ、
  今日のかつせんに二十一人うちじにのよし、いたはしきぜひにおよはず。しかれども、しやう人の御方を申され、たのもしくありがたく候。うちじにのかたがたは、ごくらくのあうじゃうとげ候はんずる事、うたがひなく候。いよいよもそうたのみ入り候。このうちじにのあとへもつたへられ候べし。あなかしこ。
   八月九日               證如判
                             野田惣中へ  
今、円満寺境内に、「天文二年巳八月九日、当村二十一人討死由緒地」といふ石碑を建つる。 ゆゑに毎年七月二十八日本願寺において、この地のお頭講中、御門主の御盃御相伴に預かる。 これ旧例となりぬ。


野田御書



野田村二十ー人討死御由緒
本願寺第十世・證如上人御旧跡  
        居原山・圓満寺について   
 圓満寺は、天文3年(1534)12月に『野田村惣道場』として創建されている。 この時代は、戦国時代の真っ最中であり、第八世蓮如上人によって一挙に教線を拡大した本願寺も各地の守護大名らと勢力拡大を目指して戦っていた。     天文2年(1533)8月9日.京郁山科の本願寺を敵勢に焼き討ちされた證如上人は石山本願寺(現在の大阪城の池)に移られ、野田村におみえになった。
  この時、紬川晴元の伏兵が待ち伏せし不意に饅いかかり戦闘となった。  
  一向宗(浄土真宗)に帰依していた野田村の門徒らは庄屋の藤氏を中心として戦い二十一人が生涯橋(現在の下福島中学校裏付近)で討死した。證如上人は小舟で泉州へと落ち延びられ、この悲報に接し野田村の門徒らへ一通の感状をしたためられた。 これが有名な『野田御書】である なお、二の合戦て野田村のほとんどの家屋敷は焼失し、往古以来著名な野田藤も焼失したといわれている。  翌天文3年(1534)12月、合戦に参加した久左衛門と申す者が證如上人より教圓という名を授けられ、證如上人の懇請により二十一人の菩提を弔うために一宇の坊舎を建立した。
 これが居原山・圓満寺のはじまりであり、当時は『摂津国下仲鴫野田村惣道場』と称していた。 この時、證如上人より阿弥陀仏画像を拝受し御本尊として安置し、現在まで『野田御書』とともに寺宝として大切に保存している。 その後、江戸時代中期の宝暦4年(1754)に圓満寺という寺号を拝受し、阿弥陀仏木像(現在の御本尊)も拝受している。
 なお、山門は寛政7年(1795)に上棟され当寺の建造物では最古のものである。 本堂は万延元年(1860)に再建されて現在に至っている。欄間の微細な彫刻や樺材や檜材をふんだんに使用した江戸時代後期の建築様式を今に伝える希少な建造物である。 梵鐘には、当寺創建の由縁となった『野田御書』の御丈をそのまま彫り込んでいる。また、当寺に現存する五千点余の古文書は、江戸時代の地域史や寺院史を研究する上での貴重な史料として注目されている。
  平成15年に『野田御書』や阿弥陀仏画像をはじめ計4点が大阪市有形指定丈化吋に認定された。 『野田御書』は日本全国に11通の写本が存在するほど著名なものであり【大阪市史】にも掲載されている。
  毎年5月8日には、野田御書(野田村二十一人討死御消息)披露法要を開催し往時を偲び討死した二十一人門徒の功績を顕彰している。



円満寺(えんまんじ) 大阪市福島区玉川4-4-25
浄土真宗本願寺派 居原山
天文3年(1534)12月、討死した21人の菩提を弔うため野田村惣道場として創建。 宝暦4年(1754)に圓満寺の寺号を拝受。 山門 寛政7年(1795)建立。本堂 万延元年(1860)再建。現在金剛組により修復中。


極楽寺(ごくらくじ) 大阪市福島区玉川4-3-7
浄土真宗 大谷派 野田御坊極楽寺


二十一人討死墓  天文2年8月9日

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