野田村二十ー人討死御由緒 本願寺第十世・證如上人御旧跡 居原山・圓満寺について 圓満寺は、天文3年(1534)12月に『野田村惣道場』として創建されている。 この時代は、戦国時代の真っ最中であり、第八世蓮如上人によって一挙に教線を拡大した本願寺も各地の守護大名らと勢力拡大を目指して戦っていた。 天文2年(1533)8月9日.京郁山科の本願寺を敵勢に焼き討ちされた證如上人は石山本願寺(現在の大阪城の池)に移られ、野田村におみえになった。 この時、紬川晴元の伏兵が待ち伏せし不意に饅いかかり戦闘となった。 一向宗(浄土真宗)に帰依していた野田村の門徒らは庄屋の藤氏を中心として戦い二十一人が生涯橋(現在の下福島中学校裏付近)で討死した。證如上人は小舟で泉州へと落ち延びられ、この悲報に接し野田村の門徒らへ一通の感状をしたためられた。 これが有名な『野田御書】である なお、二の合戦て野田村のほとんどの家屋敷は焼失し、往古以来著名な野田藤も焼失したといわれている。 翌天文3年(1534)12月、合戦に参加した久左衛門と申す者が證如上人より教圓という名を授けられ、證如上人の懇請により二十一人の菩提を弔うために一宇の坊舎を建立した。 これが居原山・圓満寺のはじまりであり、当時は『摂津国下仲鴫野田村惣道場』と称していた。 この時、證如上人より阿弥陀仏画像を拝受し御本尊として安置し、現在まで『野田御書』とともに寺宝として大切に保存している。 その後、江戸時代中期の宝暦4年(1754)に圓満寺という寺号を拝受し、阿弥陀仏木像(現在の御本尊)も拝受している。 なお、山門は寛政7年(1795)に上棟され当寺の建造物では最古のものである。 本堂は万延元年(1860)に再建されて現在に至っている。欄間の微細な彫刻や樺材や檜材をふんだんに使用した江戸時代後期の建築様式を今に伝える希少な建造物である。 梵鐘には、当寺創建の由縁となった『野田御書』の御丈をそのまま彫り込んでいる。また、当寺に現存する五千点余の古文書は、江戸時代の地域史や寺院史を研究する上での貴重な史料として注目されている。 平成15年に『野田御書』や阿弥陀仏画像をはじめ計4点が大阪市有形指定丈化吋に認定された。 『野田御書』は日本全国に11通の写本が存在するほど著名なものであり【大阪市史】にも掲載されている。 毎年5月8日には、野田御書(野田村二十一人討死御消息)披露法要を開催し往時を偲び討死した二十一人門徒の功績を顕彰している。 |
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