南岳山舎利寺(なんがくさんしゃりじ) 舎利寺村にあり。今禅宗黄檗派。初めの開基聖徳王、中興木庵和尚。
仏殿釈釈尊 左、文殊・葦駄天。右、普賢・達磨。
額 舎利尊勝寺。木庵筆。
聯 舎利光海斉しく慧眼を胆開す、岳挺秀天等しく宗風を護振す。木庵筆。
太子堂 聖徳太子四十二歳増像を安ず。
堂内額 曇華舎。隠元筆。
聯 護国庇民仰ぎ見る聖恩天広大、現身闡法始めて知る文徳月昌明。隠元筆。
外額 太子堂。木庵筆。
禅堂額 悦山筆。
祖堂額 無尽灯。道宗筆。
表門額 南岳山。木庵筆。
聯 聖地の中興紫気臨む、宗門大殷雄風起る。
太子御影松 当寺門前にあり。高五丈ばかり。一とせ兵火の時講堂灰燼となる。太子の御影飛びてこの松枝にかかり芯なしとぞ。
和泉式部腰懸松 書院の庭中にあり。詳らかならず。
 『新古今』    尼にならんと思ひたちけるを人のとめ侍りければ
  かくばかりうきを忍びてながらへはこれよりまさる物をこそ思へ 和泉式部
それ当山は聖徳太子の草創なり。むかしこの里に生野長者といふ者あり。長老が子、生質啞なりしにより、父母大いに悲歎し神仏を祈る事浅からず。太子これを風かに聞こし召され、長者が子をめして宣ふは、予が前生にて汝に毘婆尸仏(びばしぶつ)の舎利三顆を預け置きたり。今予に返し与へよと命じたまふ。その時啞のロより仏舎利三顆を吐き出だし太子に奉りぬ。それより能く言ふ事を得たり。太子すなはち二顆の舎利を天王寺・法隆寺に蔵め、一顆に自筆の御影を副へて長者に附与したまふ。これによって、一宇の精舎を建立し、舎利寺と号す。生野長者が旧棲はこの舎利寺村なり。
星霜累りて伽藍も荒廃し、やうやく太子堂一宇存在せしが、寛文年中、将軍家より黄檗山木庵和尚へこの旧地を賜ふ。
延宝三年、悦山和尚今のごとく新たに建営ありて舎利寺と号し、木庵を中祖とす。







舎利尊勝寺(しゃりそんしょうじ) 大阪市生野区舎利寺1-2-36

永代常念経回向碑 為地震津波横死建之 嘉永7年(1854)11月建立。
黄檗宗萬福寺派 聖徳太子の創建。寛文12年(1672)徳川家綱の命で黄檗の木庵禅師が再興し、真言宗から黄檗宗に改める。
船場の商人であった幸道和尚が嘉永5年(1852)から整備に努め、西国三十三所霊場めぐりを設けた。



額 舎利尊勝寺。木庵筆。


開梆(かいぱん)


本堂 大悲殿 本尊:釈迦如来


観音堂


仏足石  四天王寺と十万寺の三石が知られる。


西国三十三箇所巡り 善光寺


菅甘谷墓(すがかんこく)

HOME > 巻之三 東生郡
inserted by FC2 system