崇禅寺(そうぜんじ) 北中島にあり。禅宗曹洞
本尊釈迦仏(行基の作、長一尺玉寸)子安正観音(聖徳太子御作、長三尺五寸ばかり) 親鸞聖人名号(六字の中に阿弥陀経の細字あり)涅槃像(塘李竜aの筆なり)
当寺開基は徳叟亨隣(とくそうこうりん)和尚。足利六代将軍義教(よしのり)公卿菩提所として細川左馬頭持賢、嘉吉二年の建立なり。また将軍義政公の御袖印を賜ふ。
義士墳(ぎしのつか) 遠城治左術門重広・安藤喜八郎光乗の二人、舎弟達城重次の敵に出合ひ、ここにて返討に討たれし墳墓なり。
由緒左に見えたり。その時の武具、什物として寺に蔵む)刀(一腰、遠城治左衝門所持、銘、筒井越中守入道紀充(のりみち)脇指(一腰、同人所持、銘、摂州住藤原忠行(ただゆき)長刀(一振、同人所持、銘、関兼安(せきかねやす)刀(一腰、安藤喜八郎所持、無銘定、備前兼光)脇指(一腰・同人所持、無銘定、筑州住左京)鑓(一挺、同人所持、銘、河内守国助千鳥十文字)鎖帷子・手裏剣(両人所持、その外小道具あり)


崇禅寺(そうぜんじ) 大阪市東淀川区東中島5-27-44
凌雲山、曹洞宗 奈良時代の天平年間(729〜48)に行基菩薩が創建。 嘉吉2年(1442)時の官領細川持賢(もちかた)より大伽藍と寺領の寄進をうけ、足利義教と細川家の菩提寺として再興された。 崇禅寺の伽藍は、文明15年(1483)以来、度々兵火に遭い、慶安年間(1648〜1651)に再建されたが、先の大戦の大空襲で再び焼失。


本堂    本尊:釈迦如来 平成元年(1989)に再建された。

細川玉子の墓
慶長5年(1600)7月17日関ヶ原合戦の直前、石田三成勢が
大阪玉造の自邸を守っていたガラシャ夫人を人質にしようと
攻め寄せた際、老臣小笠原小斉の長刀の許に、37歳の生
命を落とした。 ザビエルの弟子オルガンチノが細川邸の焼
跡よりガラシャ夫人とその殉死者の遺骨を拾い、細川家ゆ
かりの当寺に埋葬した。
足利義教の墓
嘉吉元年(1441)6月の嘉吉の乱で、播磨守護赤松満祐が室
町幕府6代将軍足利義教公を京都で打ち、義教公の首を当寺
に葬った。 この因縁により、翌年に官領細川持賢より大伽藍
と寺領の寄進をうけ、足利義教公ならびに細川家の菩提寺と
して再興された。

遠城兄弟の墓
大和郡山の藩士遠城治左衛門と安藤喜八郎の兄弟は、末
弟の宗左衛門が剣術の試合で負かした生田伝八郎に闇討
ちとなった仇を討とうとして、正徳5年(1715)11月4日伝八郎
の多勢の門弟らのために返討ちになった。
遠城兄弟墓石  
剣樹心英居士(兄)、刀山天雄居士(弟) 当時の住職14世
門啓天信岑和尚と元江戸町方与力の勝見宗春氏が墓碑を
建立して亡魂を弔った。


摂津県・豊崎県県庁所在地跡
明治2年1月20日、大阪府の一部を割いて摂津県がおかれ、摂津の国八郡(住吉・東成・西成・島上・島下・豊島・能勢・川辺)を管轄。
その仮庁舎として崇禅寺の建物の一つがあてられた。
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