三韓館(さんかんかん) 同所の北一町ばかりに旧跡あり。字を唐居殿といふ。
『日本紀』云ふ「舒明天皇二年十月是歳改めて難波の大郡に三韓館を修埋る」云々。
大都とは東生郡の事なり。この三韓館を、『延喜式』には難波館といふ。
これより以前、神功皐后三韓退治の後、かの地の国王より貢を献るの使来朝の時、ここにて止宿饗応の館を建てさせたまふと見えたり。その時いまだ三韓館の名聞こえず。舒明帝の御時改めて修理し、三韓館の名顕れたり。平安城の鴻臚館も同事なり。
三輪より難波津まで乗船にて来り、まづ難波館に入って後、平安京へ上洛し鴻臚館へ入る。これすなはち大内裏の御殿の内なり。『京の水』に委し。 『延喜式』には、難波館と書きたれは、今、長崎の唐人屋敷のたぐひなるペし。



鴻朧館(こうろうかん)  大阪市天王寺区空清町
円珠庵の前にある坂を三韓坂といい、往古今の真田山陸軍墓地および騎兵隊営所のあたりに鴻臚館があった。
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