逆櫓松(さかろのまつ) 上福島橋爪町杉本氏別荘にあり。
元暦の頃、廷尉義経、梶原景時、逆櫓の論ありし所にや。大樹にして株の形驚蛇に似て千載を歴ぬらん名松と見えたり。またこの松の北の方、島田氏の家に近曾大木の丹楓(もみじ)あり。高十三間、南北の按二十間ばかりあり。惜しいかな、明和九年に枯れて今なし
 『平家物語』
 去る程に、元暦二年二月三日の日、九郎大夫判官義経、都を立って摂津国渡辺・福島両所にて船揃し、八島へすでに寄せんとす。兄の参河守範頼(のりより)も、同日に都を立つて、これも摂津国神崎にて兵船汰へて、山陽道へ趣かんとす。同十日、伊勢・石清水へ官幣使を立てらる。主上ならびに三種の神器、事ゆゑなう都へ返し入れ奉るペきよし、神祇官の官人・諸の社司、本宮・本社にて祈誓中すべき旨仰せ下され、同十六日、渡辺・福島両所にて汰へたりける船どもの纜(ともづな)、すでに解かんとす。折節、北風木を折って烈しう吹きたりければ、船どもみな打ち損ぜられて出だすに及ばず、修理の為にその比は留りぬ。去る程に、渡辺には東国の大名小名寄り合ひて、そもそもわれ等船軍の様はいまだ調練せず、如何がせんと評定す。梶原進み出でて、今度の船には逆櫓を立て候はばやと申す。判官、逆櫓とは何ぞ。梶原、馬は駆けんと思へば駆け、引かんとおもへは引き、弓手へも、馬手へも廻し易う候が、船は左様の時、急度押し廻すが大事にて候へば、艫・舶に櫓を立てて違へ、アイ楫を入れて、どなたへも廻しやすい様にし候はぼやと申しければ、判官、まづ、門出の悪しさよ、軍には一引きも引かじと思ふだに、合悪しければ引くは常の習ひなり。まして左様に逃げ設けせんに、なじかは能かるべき。殿原の船には、逆櫓をも返様櫓をも百丁千丁も立てたまへ。義経は、ただもとの櫓で候はんと宜へは、梶原重ねて、好き大将軍と申すは、騒くべき所をも駆け、引くべき所をも引き、身を全うして敵を亡すをもつて好き大将とはしたるなり。左様に片趣なるをば、猪武者とて、好きにはせずと申す。判官、猪・鹿は知らず、軍は、ただ平責めに攻めて勝ちたるぞ心地はよきと宜へは、東国の大名小名、梶原に恐れて高くは笑はねども、目引き、鼻引き、をめきあへり。その日、判官殿と梶原、すでに同士軍せんとす。されども軍は無かりけり。


逆櫓の松   大阪市福島区福島2-2-4
逆櫓(さかろ)の松跡
 『平家物語』の逆櫓の段によれば、1185年2月、源義経は、平氏を討つため京都を出発し、摂津国の渡辺、福島から、四国の八島(屋島)を船で急襲しようとした。
 義経軍は、船での戦いはあまり経験がなかったので、皆で評議していると、参謀役の梶原景時が「船を前後どちらの方角にも容易に動かせるように、船尾の櫓(オール)だけでなく船首に櫓(逆櫓)をつけたらどうでしょう」と提案した。しかし義経は「はじめから退却のことを考えていたのでは何もよいことがない。船尾の櫓だけで戦おう」と述べた。
 結局逆櫓をつけることをせず、夜に入って義経は出陣しようとした。折からの強風を恐れてか、梶原景時に気兼ねしてか、それに従ったのは二百数艘のうちわずか5艘であったが、義経は勝利をおさめた。   
 その論争を行った場所が、一説によればこのあたりといわれている。この地には、江戸時代の地誌『摂津名所図会』によれば、幹の形が蛇のような、樹齢千歳を越える松が生えていたという。この松を逆櫓の松と呼んだ。
 逆櫓の松は、近代に入るころには、既に枯れてしまっていたらしい。
                                              大阪市教育委員会

大正15年4月福島史談会が「逆櫓の松跡趾」の碑を建てたが、昭和20年3 月13日の大阪大空襲で行方不明になっていた。昭和33年に見つかり、地元有志によって昭和49年5月に現在地に移設された。


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