HOME > 巻之三 東生郡

大和田(おおわだ) 御手村の西北にあり。この所尼ヶ崎に近くして河海の界なり。ゆゑに魚鱗多し。
ことに鯉多く集まればつねに漁す。これを大和田の鯉掴といふ。
なほ、浦・浜古詠あり。兵庫の和田岬とするは謬なり。
 『土佐日記』云ふ、
  九日、こころもとなきに、あけぬから船を引きつつ上れども、河の水なければいざりにのみぞいざる。この間に和田の泊のあかれ所といふ所なり。
 『万葉集』  浜きよくうらなつかしき神代よりちふねのとまる大和田のうら  読人しらす
 『夫木』    大和田のうらわにこよひ船とめて清き浜べに月をいざみん    具氏



万葉の歌碑 大阪市西淀川区大和田5-20-20 大和田住吉神社
  濱津よく浦なつかしき神代より 千船の泊る大和田の浦  読み人しらず
    正二位二寿基弘書 大正7年(1918)建立。   

三善貞司 『大阪史跡辞典』 大和田万葉歌碑 
『摂津名所図会』はじめ大抵の本には「読人知らず」と出ているが、これは『万葉集』巻六の1067番歌で田辺福麿の作、しかも今の大和田を詠んだものではない。「敏馬(みぬめ)の浦を過ぐる時に作る歌」と詞書をもった長歌につけた反歌二首の一つで、敏馬というのは今の神戸市灘区岩屋、大石付近の海をいい、「敏馬の浦は大国主命の頃から多くの舟人で振ったが、本当に今も見事な白砂の浜が続いているよ」との意の長歌の後に、「大和田の浦は美しいから神代の頃から多くの舟がくるのだなあ」と反歌をつけたものである。 もともと大輪田の泊りという語は各地にあるが、単に大輪田といえば今の神戸、つまり和田岬にいだかれた兵庫港を指すのが常であった。奈良時代にはすでに瀬戸航路の要津で、延喜14年(914)の三善清行の『意見封事』に弘仁3年(812)6月大輪田泊修復と出ており、『摂津名所図会』等に「浜清くの古詠兵庫和田岬とするは誤りなり」とあるのは完全に誤りである。同社では『摂津名所図会』の記述を引用し、「大和田浦は当地、重要性を再認識せよ」との意の説明板を横に建てているが、いかがであろうか。田辺福麿は天平20年(748)左大臣橘諸兄の使者として大伴家持のもとに行ったことと、当時造酒司の令史だったことぐらいしか判らないが、江口から新庄迄の運河が延暦4年(785)にやっと完成しているのをみても、福麿が今の大和田で詠んだとは到底思われない。
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