三善貞司 『大阪史跡辞典』 大和田万葉歌碑 『摂津名所図会』はじめ大抵の本には「読人知らず」と出ているが、これは『万葉集』巻六の1067番歌で田辺福麿の作、しかも今の大和田を詠んだものではない。「敏馬(みぬめ)の浦を過ぐる時に作る歌」と詞書をもった長歌につけた反歌二首の一つで、敏馬というのは今の神戸市灘区岩屋、大石付近の海をいい、「敏馬の浦は大国主命の頃から多くの舟人で振ったが、本当に今も見事な白砂の浜が続いているよ」との意の長歌の後に、「大和田の浦は美しいから神代の頃から多くの舟がくるのだなあ」と反歌をつけたものである。 もともと大輪田の泊りという語は各地にあるが、単に大輪田といえば今の神戸、つまり和田岬にいだかれた兵庫港を指すのが常であった。奈良時代にはすでに瀬戸航路の要津で、延喜14年(914)の三善清行の『意見封事』に弘仁3年(812)6月大輪田泊修復と出ており、『摂津名所図会』等に「浜清くの古詠兵庫和田岬とするは誤りなり」とあるのは完全に誤りである。同社では『摂津名所図会』の記述を引用し、「大和田浦は当地、重要性を再認識せよ」との意の説明板を横に建てているが、いかがであろうか。田辺福麿は天平20年(748)左大臣橘諸兄の使者として大伴家持のもとに行ったことと、当時造酒司の令史だったことぐらいしか判らないが、江口から新庄迄の運河が延暦4年(785)にやっと完成しているのをみても、福麿が今の大和田で詠んだとは到底思われない。 |