野田城跡(のだのしろあと) 野田村にあり。字を城の内といふ。
初め細川氏綱在城す。天正年中には信長の旗下ここに塁を築く



野田城跡 大阪市福島区玉川4-11-15
野田城跡
戦国時代、畿内一円に勢威をふるった三好一党がこの地に築いたが、後に改築され、石山本願寺ついで織田信長方の重要拠点となった。字「城之内」と呼ばれたこの辺りがその中心である
平成二年三月  大阪市建立



野田城趾 大阪市福島区玉川4-3-7 極楽寺門前
野田城跡
大阪城がまだ本願寺であった室町時代に野田城(玉川四丁目交差点(旧名城の内)より東は恵比寿神社の東側(旧名弓の町)迄が城域で、その中心地が当地(旧名奥の町))を訪れた本願寺第十世証如上人が六角定頼に包囲されたときに、蓮如上人の教化を受けていた野田福島の念仏者が証如上人を守護せんとして、二十一人が殉教された(天文二年八月九日)これらの討死衆の菩提寺として建立されたのが当寺極楽寺で、その後、本願寺南御堂の掛所となり、野田御坊と名付けられ、今日に至っている。  
              平成13年(2001年)建之 野田御坊極楽寺

 野田城は享禄4年(1531年)頃に築かれ、後に畿内一円に勢威をふるった三好一党が改築したのではないかと推測されています。
元亀元年(1570年)織田信長は、石山本願寺に攻め入り、この後10年にもおよぶ「石山の合戦」が始まり、天正4年(1576)、石山本願寺と同盟を結ぶ三好一党は野田城に立てこもり、織田軍と戦いますが落城。 天正6年(1578)には毛利水軍と戦う織田軍の重要な拠点になりますが、その後は歴史から忘れ去られ、現在ではその痕跡すら見つかりません。
「弓場」「城之内」などという地名が玉川付近に残されていたことからも、このあたりに野田城があったのではないかと推測されています。

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