野田藤(のだのふぢ) 春日の林中にあり。
むかしより紫藤名高くして、小歌節にも、吾野の桜・野田の藤と唄へり。弥生の花盛りには、遠近ここに来て幽艶を賞す。茶店・貨食店ところどころに出だして賑ふなり
 『新類題』
  難波がた野田の細江を見わたせば藤浪かかる花の浮橋  西園寺中将公広卿  貞治三年四月、藤浪盛りの頃、足利将軍義詮(よしのり)公、住育詣のときとの地へ立ち寄らせたまひ、池の姿を玉川と准へ和歌を詠じたまふ.『住吉詣の記』に見えたり。
  いにしへのゆかりを今も紫のふぢ波かかる野田のl玉川     将軍義詮公
 曾呂利庵(そろりのいほり)天文年中逆乱時、この藤、兵火に罷りて亡ぶ。ただ古跡のみとなりしを、文禄年中、秀吉公ここに篤をめぐらされ、紫藤の僅かに残りしを御遊覧あり。その時、御憩所の亭を藤の庵と号けさせられ、御傍衆曾呂利新左衛門に額を書かせ下したまふ。その後、秀吉公御甥、下河辺長流といふ風流人ここに来り、詞書して一首の和歌を泳まれける。その詞に云ふ
  さく花のしたにかくるる人おほみとよめるうたは、いにしへ藤うぢの栄花のさかりによせたるなるペし。これは、ちかきよに豊臣の太閤あさの衣のひとへよりおこりて、つひにわがおはやまとをさへおほひ余れるそでのいきほひ、はるかなる唐土までもおびやかしたまふる時に、あひにあひたるさかりを見えて、名は高浜の松のひびきと四方に聞こえし藤なりけむ。今その古根のひこばえ、なほこのいはりの庭に残りて、春を忘れぬかた見なりけれは、ゆかりの色をたづねきたりて、みる人の絶えぬもあはれなり。 それが中に、はり江の河の長き流れを名とせる翁ありて、かく叙ペよみたリし
  みつ塩の時うつりにし難波津に有りし名残りの藤波の花


下福島公園 大阪市福島区福島4


藤菴 文禄3年春
野田ふじは600年余り前から 吉野の桜か野田の藤とその美がたたえられ 将軍 足利義詮 や太閤秀吉などが野田の旧家藤邸へ来遊しました
この著名な野田ふじも近年樹勢が衰え枯死寸前の状態になっていましたが 藤家ならびに大阪福島ライオンズクラブのご厚意によりここ下福島公園に藤邸の庭を移し 同庭に残存の原木から接木した数本のふじを移植して昔日の面影を再現することになりました
なお当地から南西400mの春日祠前には野田の藤跡の碑があります
    昭和48年2月 大阪市 


豊臣秀吉が花見に当地を訪れた際、藤家の邸宅「藤庵」で茶会を催したという。


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