仁徳天皇皇居(にんとくてんのうこうきよ)
   『日本紀』日く、
     天皇元年春正月丁丑朔己卯、大鷦鷯尊難波に都る、これを高津宮と謂ふ云々。
   『万葉』     大宮の内まできこゆ網引すとあごととのふる海人の呼声     読人しらず
     同     桜花いまさかりなり難波の海押してる宮に聞こしめすなり     大伴家持
   『金葉』     いにしへの難波のことをおもひ出でて高津の宮に月の澄むらん     参議帥頼
   『新勅』     春の夜の月にむかしや思ひ出づる高津の官に匂ふ梅がえ     覚廻法師
     同     荒れにける高津の宮の子規誰になにはのことかたるらん     権中納言長方
   『玉』     ふりにける跡に心のとどまるは高津の宮の雪のあけぼの     藤原隆信朝臣
 皇居の地、年歳久遠にして今詳らかならず。
仁徳天皇即位より今寛政十年まで、すべて一千四百八十三年になる。
旧記・古歌を考ふるに、東生郡の内、百済野(むかしは百済郡) ・猪甘野・味生野を指す。予この地相を見るに、この辺一堆の丘にして、東北の連山はるかに・西南の滄海能き程にへだたり、当国の勝地実に四押相応の地といひつペし。
『爾雅』に日く「山南水北を陽といふし。これ中華にて洛を創てさせたまふ基なり。『公劉篇』に「南岡に陟って乃京を観る、京師の野」これを『鄭箋』に日く、都邑を営立すべき所をいふ。
朱証に、京は高丘なり、師は衆なり、高き丘に衆く居するなり。 すべて今大坂三郷は、清泉少なく味ひ轍くして鉄気あり。この地はことに清泉多く、 甘味軽くして四時涸れず涌出する事寒暑に変はらず。いはゆる産湯清水・山下清水、 玉造には山吹井・織部風呂・前井・誓海井等あり。上古より都を建てさせたまふ地は、 山城・大和および皇居の旧蹟みな今に清泉多し。
その外、大社・伽藍地等にもすこぶる名水あり。住吉の志水・天王寺の三名水・昆陽寺の行基水・垂水神社の垂水、仲山寺の大悲水等、記するに際限なし。初め皇居を立てさせたまふ時、第一に清泉を撰 みたまふと見えたり。
水脈は人力に及ばざる所なり。源順の河原院の賦に、人物は変はれども煙霞は変はらず、時世は改まれども風流改まらずと書きしはこれらにや協ひ侍らんか、その旧跡を按ずるに都城の封境は方一里ばかりにして、東方は河内国に亘り、皇城の彊地は、東は百済川、西は上町、北は玉造、南は百済野を際る。
宮城は小橋寺町の西の方、今の桃木原、これを土人御殿谷といふ。またあるが云く、東は有郡谷、西は大伴郡大江岸、北は味生阪高台(今土人コソタイと云ふ)、南面は餌指町の地にして皇居ありしとぞ。しかれども年歳累り桑田熱海須臾にあらたまる習ひなれば、今鮮かにしる事能はず。まづ摂津一州の中に皇居となるべき地外に見えざれは、的らずしても遠からざるの今按なり。





高津宮址碑(たかつのみやあと) 大阪市天王寺区餌差街10-47 大阪府立高津高校校庭
仁徳天皇1500年大祭祈念 明治32年(1899)11月 大阪府建立。

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